古河城跡(読み)こがじようあと

日本歴史地名大系 「古河城跡」の解説

古河城跡
こがじようあと

[現在地名]古河市錦町・桜町など

古河城は渡良瀬わたらせ川東岸に位置し、現在の三国みくに橋の手前に大手門があったが、明治七年(一八七四)に取壊され、城跡も明治末期に始まる渡良瀬川の河道変更によって主要部分を失った。明治一八年の二万分一地図によると南北一・四キロ、東西三〇〇―四〇〇メートルほどの、この地方によくみられる半島状台地としては最大のものを利用している。西は渡良瀬川、南から東にかけては湿地・沼に取巻かれ、北のみに人工の堀が数条走る。

城の起源を「鎌倉大草紙」「永享記」など後世の記録類は下河辺しもこうべ庄荘司下河辺氏の居館に始まるとしているが、広範な下河辺庄を押える位置としてはあまりにも北辺すぎるので、下河辺氏が常に根拠としていた所であったとは思えない。下河辺氏の衰退に伴い下河辺庄は執権北条氏に移ったといわれるから、鎌倉中期以後は北条氏の代官が置かれたはずであるが、記録を欠く。

興国元年(一三四〇)七月二〇日の北畠親房御教書写(松平結城文書)に高師冬軍が「猶逗留古河辺」したとあるのは古河城と考えられ、しだいにその姿を史上に現してくる。「北越軍記」には応安年間(一三六八―七五)に上杉憲栄が古河城主であったとの記事がみえ、「関東古戦録」によれば康暦二年(一三八〇)には憲栄の目代下河辺朝行が城主で、小山義政と鎌倉公方足利氏満による古河城争奪戦があり、「頼印大僧正行状絵詞」には至徳三年(一三八六)小山若犬丸の乱に際して七月一二日に「下総国古川郷ニ陣ス。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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