古河市(読み)コガシ

日本歴史地名大系 「古河市」の解説

古河市
こがし

面積:二一・〇三平方キロ

県最西端を占め、東は猿島(さしま)郡総和町、南は利根川を挟んで同郡五霞(ごか)村・埼玉県北葛飾(きたかつしか)郡栗橋(くりはし)町、北は栃木県下都賀(しもつが)郡野木(のぎ)町、西は渡良瀬(わたらせ)川・利根川を境として同郡藤岡(ふじおか)町、埼玉県北埼玉郡北川辺(きたかわべ)町・大利根町。群馬県・千葉県にも近い。

市域は、洪積台地を西の渡良瀬川、東の浸食谷がそれぞれ南北方向に断ち切ってできた東西二・九キロ、南北八・六キロほどの細長い地形上に展開。標高は北部で二〇メートル内外、南部で一六メートル内外で、南にいくにつれて低くなる。比高もきわめて低く、西部・南部一帯には数多くの小沼が散在する湿地が続き、古来、洪水に苦しむことがしばしばであった。

古河の名は「万葉集」巻一四の未勘国相聞往来歌中の「許我(こが)」にみえるとされるが、確実なものは「吾妻鏡」養和元年(一一八一)閏二月二三日条の「古我」といえる。

〔原始・古代〕

先土器時代の石器は大字鴻巣(こうのす)の城の地(じようのち)遺跡、大字駒(こま)ヶ崎(さき)の駒ヶ崎遺跡から細石器が採集されたのみであるが、縄文土器包含地は水辺に面した台地の至る所にみられる。本格的な学術調査を経ずに消滅したものが多いが、早期―晩期の縄文全時期の土器片が採集されている。貝塚は、市域が奥東京湾最奥部に面した頃の縄文早期・前期のごく小規模なものが発見され、縄文時代の竪穴住居跡の予想地も二、三あるが、まだ確認されていない。古墳は中田(なかだ)古墳群や立崎(たつさき)古墳があり、中田古墳からは東京国立博物館蔵の男子半身像など見事な埴輪が出土しているが、大正期(一九一二―二六)の河川改修工事と近年の開発により、ことごとく消滅した。土師器は古墳時代のものが、大字大山(おおやま)・鴻巣・牧野地(まきのじ)などから出土。

古代の国郡設定において当市域がどこに属したか明らかでない。近世には下総国葛飾郡であったが、中世以前の諸記録は、下総国とするもの、下野国とするもの、武蔵国と下野国の境とするものなどさまざまである。台地の続き具合からみても、「延喜式」「和名抄」の下野国寒川郡と下総国嶋(さしま)郡の境界地帯で、そのいずれともいえず、河川の流路変遷に伴っての時代的変化も考えなければならない。だいたいは嶋郡であった可能性が強いが、市域の南部と北部とで管属を異にしたかもしれない。大字駒ヶ崎を除く中部・南部地域では、各地区ごとに下総一宮の香取神宮(現千葉県佐原市)を分祀して鎮守としているのに対し、北部では香取社はまったく存在しないか、存在してもきわめて影が薄く、明確な違いが認められる。


古河市
こがし

2005年9月12日:古河市と猿島郡三和町・総和町が合併
⇒【三和町】茨城県:猿島郡
⇒【総和町】茨城県:猿島郡
⇒【古河市】茨城県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「古河市」の意味・わかりやすい解説

古河〔市〕
こが

茨城県西端,関東平野のほぼ中央,栃木県,埼玉県との県境に位置する市。1950年市制。1955年新郷村を編入。2005年総和町,三和町と合体。西部は渡良瀬川および渡良瀬遊水地,南部は利根川に面し,ほぼ全域が平坦な地形。鎌倉時代中期に足利成氏が居城してから古河公方 5代の拠点となり鎌倉文化を移入して関東の政治,文化の中心地となった。近世には奥州街道,日光街道の宿場町,古河藩の城下町,渡良瀬川,利根川の河港として発展。特に河港は六斎船が出入りし,利根川を経て江戸に通じた。1877年蒸気船『通運丸』が往復し,1885年の東北本線開通まで東北地方の人にも利用された。明治維新後に旧藩士が製糸工業を興し,養蚕地帯を控え関東有数の製糸工業都市に発展したが,第2次世界大戦後は衰微した。機械,電気器具,自動車部品などの工業が発達。洋傘,マネキン人形も製造される。米作,野菜や花卉の栽培も行なわれる。古河城跡,正定寺,雀神社がある。旧飛田家住宅は国指定重要文化財。JR東北本線,国道4号線などが通じ,東京まで約 1時間の距離となり,住宅地化が進み,都心への通勤・通学者も多い。ほかに,国道125号線,354号線が通る。面積 123.58km2。人口 13万9344(2020)。

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