関宿城(読み)せきやどじょう

日本の城がわかる事典 「関宿城」の解説

せきやどじょう【関宿城】

千葉県野田市(旧東葛飾郡関宿町)にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。1457年(長禄1)に、古河公方足利成氏家臣の梁田満助あるいは梁田成助が築城したといわれる。栗橋城(茨城県猿島郡五霞町)の野田氏、幸手城(埼玉県幸手市)の一色氏、菖蒲城(埼玉県南埼玉郡菖蒲町)の佐々木氏(旧金田氏)、騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)の佐々木氏(旧小田氏)、羽生城(埼玉県羽生市)の広田・木戸氏などとともに古河公方の勢力の重要な拠点となった。その後、武蔵国を支配下に収めて関東制覇をめざす北条氏康は、同城を重要な要として認識して攻略を開始。1565年(永禄8)から1574年(天正2)にかけて城主で上杉謙信方の梁田晴助との間に3度の合戦が起こった(関宿合戦)。3度目の戦いで北条氏の属城となったが、1590年(天正18)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康に与えられ、家康は弟の松平久松)康元を同城に入城させた。これにより関宿藩が成立する。その後、多くの譜代大名が城主となったが、1705年(宝永2)に久世氏が入城し、以後久世氏が8代続いて明治維新を迎えた。1872年(明治5)には廃城となり、1875年(明治8)には城の建物は民間に払い下げ、破却となった。江戸時代には、同城本丸に、天守閣に似せた櫓(やぐら)の「御三階櫓」が建設された。1671年(寛文11)に再建された櫓は、江戸城の富士見櫓を模してつくられていたといわれる。城跡の河川改修や圃場整備が進み、かつての遺構はほとんど失われてしまった。ただし、かつての埋門大手門と伝わる城門が市内に、関宿城の城門と伝わる薬医門が逆井城に移築されて現存する。また、市内の実相寺(旧藩主久世氏の菩提寺)には本丸新御殿の一部を移築した客殿がある。また、1995年(平成7)に千葉県立関宿城博物館内に、かつての御三階櫓を模した模擬櫓が建てられた。ただし、かつて御三階櫓があった場所とは異なる。東武野田線川間駅からバス。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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