司馬金竜墓(読み)しばきんりゅうぼ(その他表記)Sī mǎ Jīn lóng mù

改訂新版 世界大百科事典 「司馬金竜墓」の意味・わかりやすい解説

司馬金竜墓 (しばきんりゅうぼ)
Sī mǎ Jīn lóng mù

中国,北魏の重臣司馬金竜(?-484)と妻姫辰の合葬墓。1965年,山西省大同市の南東,石家寨村南西で発見され調査が行われた。大型の塼室墓で前室,後室,耳室の3室よりなる。後室に放置されていた石製の棺床には竜,虎,鳳凰伎楽浮彫が施されている。石柱礎と漆絵を施した木板が後室の角道と後室に置かれていたが,石柱礎石の四周には,唐草文様をあしらい,楽器を演奏し舞踏する童子が描かれている。木板は長さ80cm,幅20cmで,石柱礎にたてられたついたて(屛風)と考えられる。漆絵は伝説故事にもとづく帝王,烈女,孝子などを描いたものである。その他の出土品には,南朝の越州窯と思われる唾壺だこ),武士俑,騎馬武士俑,鉄製の鐙(あぶみ)などがある。鉄製鐙の実物の出土は貴重である。墓主の司馬金竜は,西晋の王族司馬氏の一門であり(司馬懿(しばい)),北魏に仕え漢族として最高の位,吏部尚書まで進み,死後,大将軍,司空公,冀州刺史を贈られている。司馬氏は西晋より東晋にうつり,司馬金竜の父,司馬楚之のとき,東晋より北魏にくだり,拓跋氏に忠実に仕えた。司馬金竜墓の墓葬の形式副葬品からうかがえる特徴は,孝文帝が漢化政策をとる以前に,すでに漢民族の伝統的文化が色濃く反映されていることにあり,北魏の平城文化を知るうえで注目すべき北魏墓といえる。
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