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孝文帝 こうぶんていXiao-wen-di; Hsiao-wên-ti

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

孝文帝
こうぶんてい
Xiao-wen-di; Hsiao-wên-ti

[生]皇興1(467)
[没]太和23(499)
中国,北魏の第6代皇帝 (在位 471~499) 。姓名は元 (拓跋) 宏。は孝文皇帝。廟号は高祖。父は北魏第5代の献文帝。馮太皇太后の執政下に官吏の俸禄制の制定,均田法 (→均田制 ) の発布,三長制の設置など画期的な政策を断行した。太后の死後親政して都を平城から洛陽に移し,漢化政策を推し進めた。そのため漢人官吏が官界で次第に勢力を増した。北魏文化の隆盛期を迎えたが,鮮卑族のなかにはその政策に不満をもつものが多く,皇太子の反乱事件さえ起った。また,漢民族と鮮卑族との家格を定め,姓族分定を行なって,家格に応じて子弟を官吏に登用した。

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デジタル大辞泉の解説

こうぶん‐てい〔カウブン‐〕【孝文帝】

[467~499]中国、北魏の第6代皇帝。在位471~499。姓は拓跋(たくばつ)、のち、元。名は宏(こう)。三長制均田制を実行。平城山西省)から洛陽へ遷都すると同時に風習・言語を中国風に改め、南朝にならって官制を整備した。

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百科事典マイペディアの解説

孝文帝【こうぶんてい】

中国,北魏の第6代皇帝(在位471年―499年)。廟号は高祖。初め胡太后が執政,その間に均田法などが実施され,隆盛期を迎えた。490年親政,平城(大同)から洛陽に遷都。
→関連項目魏晋南北朝時代少林寺洛陽伽藍記竜門石窟

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世界大百科事典 第2版の解説

こうぶんてい【孝文帝 Xiào wén dì】

467‐499
中国,北第6代皇帝。在位471‐499年。拓跋(元)宏。廟号高祖。献文帝の長子として生まれ,471年(延興1)父帝の譲位を受けて即位。しかし当時は胡太后専制時代で,帝も太后の養育と後見を受けた。太后はときにむごい仕打ちを加えたが,帝はよくこれに堪え,490年(太和14)太后の死を契機に親政時代を迎えた。帝が使命としたのは,種族的原理がなお強く作用していた北魏国家を,いっそう普遍的な国家に高めることであった。

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大辞林 第三版の解説

こうぶんてい【孝文帝】

467~499) 北魏ほくぎの第六代皇帝(在位471~499)。姓名は元(拓跋たくばつ)宏。廟号びようごうは高祖。均田法・三長制を施行し国力の充実をはかる一方、中国同化策を行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

孝文帝
こうぶんてい
(467―499)

中国、北魏(ほくぎ)第6代の皇帝(在位471~499)。諱(いみな)は宏、廟号(びょうごう)は高祖。父献文帝の譲位により即位したときは5歳であり、祖父文成帝の皇后文明太后の執政が490年まで続いた。この間に、国家による土地把握をたてまえとする均田制、戸単位にかわって夫婦を単位として徴税する租調制、それらを施行する条件をつくる三長(さんちょう)制の創出が行われた。これらは国家による小農民の直接把握を目ざすもので、北魏のみならず中国史上重要な意義をもつ。これに先だつ地方官への俸禄(ほうろく)支給制の施行もその一環とみなせる。
 この基礎のうえに立つ親政期の政策は、通常、漢化政策と称される。それは平城(へいじょう)(山西省大同)から洛陽(らくよう)への遷都強行に始まり(493年に着手)、鮮卑(せんぴ)の言語、衣服の使用を禁じ、姓を漢族風に改め(たとえば帝室拓跋(たくばつ)氏は元氏となった)、洛陽に移った北人の平城帰葬を許さないなどの諸策が相次いで出された。もっとも注目すべきは姓族分定であり、漢人貴族の家格詳定を伴いつつ、北族社会を、当時の中国社会を規定していた門閥(もんばつ)主義下に再編しようとしたものであり、そのうえで同格の漢人と北族の通婚を奨励、帝は自ら諸弟の妃に漢人名族の女を選んだ。これらは北族による統治の行き詰まりの打開策であったが、反面、北族の不満は大きく、在世中に皇太子らの反逆があり、また20余年後の六鎮(りくちん)の乱の遠因となった。帝は、詔勅をも自ら書くほど中国的教養が深く、朝廷の儀礼も、治世中に多く中国的なそれに改められた。[窪添慶文]

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世界大百科事典内の孝文帝の言及

【魏】より

…帝国の発展に伴って漢人貴族の政権参加も一般化し,北族中心の国家体制を改革する必要が生じた。第6代孝文帝は洛陽遷都を断行し,また北族の姓氏,言語,風習を漢族風に改める諸政策によって,中国的貴族制国家を志向した。それはやがて北族系軍人の不満を増大させ,524年(正光5)の六鎮の乱を契機に東西両魏に分裂した。…

※「孝文帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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