日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉備田狭」の意味・わかりやすい解説
吉備田狭
きびのたさ
生没年不詳。古代5世紀ごろの吉備地方の豪族。正しくは吉備上道臣(かみつみちのおみ)田狭。『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇7年是歳条にみえる。宮廷で田狭が妻の稚媛(わかひめ)が絶世の美女であるのを自慢しているのを聞いた雄略は、田狭を任那(みまな)国司に任じて朝鮮に送り、その留守に稚媛を奪った。これを知った田狭は新羅(しらぎ)に入り新羅とともに雄略に敵対する。これに対して雄略は、田狭と稚媛の子の弟君(おとぎみ)を吉備海部直赤尾(きびのあまべのあたいあかお)とともに朝鮮に派遣し、新羅の侵略と百済(くだら)の技術者を連れ帰ることを命じた。弟君が朝鮮にきたことを知った田狭は、使を送って、自分は任那を、弟君は百済に拠(よ)って雄略に対抗することを勧めたが、結局は果たさなかったという。この所伝には各種の説話の混入や異説もあり信憑(しんぴょう)性は薄い。
[吉田 晶]