改訂新版 世界大百科事典 「吉備氏」の意味・わかりやすい解説
吉備氏 (きびうじ)
古代の吉備の豪族。《古事記》《日本書紀》の伝承によれば,景行(天皇)の妃となり日本武(やまとたける)を生んだ播磨稲日大娘は同氏の出身で,日本武とともに蝦夷遠征に功のあった吉備武彦の娘は日本武の妃となり,吉備武彦の子の鴨別は仲哀(天皇)の熊襲征討に功があり,応神(天皇)の妃の兄媛や仁徳(天皇)の妃の黒媛も吉備氏の出身という。これらを通じて,大王家に女を入れて婚姻関係を結び,その軍事行動に参加するという形で,大王勢力と結合関係にあったことが知られる。吉備氏は主として5世紀代に栄え,巨大古墳として知られる造山・作山などは,その最高首長の墳墓と考えられる。だが《日本書紀》によると雄略朝ごろの前津屋(さきつや),田狭(たさ),星川皇子の反乱とその失敗を契機に没落した。8世紀の史料によれば,出雲や近江にも吉備部が分布しており,かつての繁栄をうかがわせる。
吉備氏の系譜には3種があり,図のC→B→Aの順序で造作された。Cは別(わけ)号の人名表記に古形を残し,大王との関係も姻戚のみで王族出身とは記さず,一族内部も対等の関係としていて,5世紀代までの部族同盟的関係を伝えている。Bは吉備と関係の深い吉備津彦が四道将軍の一人として大王系譜に位置づけられたことを前提として,共通の始祖をその異母弟に求めたもので6世紀中葉以降のもの。Aは7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として出身したことを前提に,それに対抗して上道臣らが始祖の尊貴性を主張する意図から造作された。3系譜は各時期での吉備氏の歴史を語っている。7世紀以降,吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋)・苑・下道・笠らの氏族に分氏し姓(かばね)としては臣(おみ)を称した。多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが,中央貴族として立身したものも少なくない。笠垂は古人大兄皇子の反を告げて出身し,上道斐太都(ひだつ)は橘奈良麻呂の乱に功があった。下道真備(まきび)が吉備真備として活躍したことは有名である。
執筆者:吉田 晶
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報