吉田城下(読み)よしだじようか

日本歴史地名大系 「吉田城下」の解説

吉田城下
よしだじようか

豊川左岸今橋いまはしとよばれた地に永正二年(一五〇五)牛久保うしくぼ(現豊川市)の牧野古白が築城。「今橋物語」(正太寺蔵)に「馬見塚ノ岡ヲ検分シテ、入道淵ト云所、岸高ク境内広シ。宜城地ト定、縄張始」と記し、豊川の入道淵を背にした馬見塚まみづかの岡の地に築かれたと伝えている。その後天正一八年(一五九〇)池田輝政城主に封ぜられてのち大規模な拡張工事が行われた。すなわち本丸を中心に半円状に二の丸・三の丸をめぐらし、それぞれの間に土塁と空堀が設けられた。貞享年中(一六八四―八八)とされる吉田城二之丸御殿絵図(橋良文庫蔵)によると、政庁であり藩主の住居となった表御殿と、藩主一家の住居、御勝手建物があった。三の丸の外側東・西・南三方は武家屋敷地で、天王てんのう小路・広小路神明しんめい小路・神明小路横町の小路名でよばれた。のちに広小路は八町はつちよう小路、神明小路横町は袋小路・八幡小路・川毛小路・土手之小路とよばれた。これら武家屋敷の外側に土塁と堀(総堀)をもって町地と区分していた。

承応三年(一六五四)郡代長谷川太郎左衛門の手で東方二キロの地点に向山むかいやま池が築かれ、水は総堀に注がれ、余水は町中の用水とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報