吉田庄・吉田村(読み)よしだのしよう・よしだむら

日本歴史地名大系 「吉田庄・吉田村」の解説

吉田庄・吉田村
よしだのしよう・よしだむら

現えびの市の西部を占める。建久図田帳に、島津庄のうち一円庄の一所として諸県もろかた郡の「吉田庄三十丁」がみえる。地頭島津忠久。応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記にも、諸県郡内吉田庄三〇町とある。だが建久図田帳(長谷場文書)では吉田村とあり、三四町七反三〇歩となっている。

南北朝期に入り、康永四年(一三四五)一一月二二日の開田出羽守領吉田村年貢濫妨事書(相良家文書)には、「開田出羽守殿御領」として吉田村がみえる。この開田出羽守は同年一〇月二七日足利尊氏から筑前国頓野とんの(現福岡県直方市)地頭職を安堵された開田遠長で(「足利尊氏下文写」正閏史料二之一所収厚母文書)、忠実な足利尊氏方の武将であったらしい。このような開田氏の立場から、当時吉田村は一種の将軍家関係所領とみてよかろう。この二〇ヵ条からなる年貢濫妨事書によれば、康永四年九月三日、吉田村沙汰人覚仏は隣接する馬関田まんがた庄からの濫妨がある由を聞き、百姓を守護するために坂覚英一族の坂大進房をはじめ付近の武士たち数十人を吉田に派遣した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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