吉祥寺村(読み)きちじようじむら

日本歴史地名大系 「吉祥寺村」の解説

吉祥寺村
きちじようじむら

[現在地名]武蔵野市吉祥寺北町きちじようじきたまち一―五丁目・吉祥寺東町きちじようじひがしちよう一―四丁目・吉祥寺本町きちじようじほんちよう一―四丁目・吉祥寺南町きちじようじみなみちよう一―五丁目・御殿山ごてんやま一―二丁目・中町なかちよう一―三丁目など

現武蔵野市の東部に位置し、西は西窪にしくぼ村。村の南西端を玉川上水南東に向かって流れる。明暦三年(一六五七)一月と翌年一月に江戸で大火が発生、罹災した本郷元ほんごうもと(現文京区)にあった吉祥寺門前浪人農民らが五日市街道沿いに移住し、開拓したところから村名が付けられたとされる(武蔵野市史)幕府はこれらの大火を契機に大規模な都市計画を実施、万治二年(一六五九)江戸市内に居住していた町人・農民に立退きを命じ、彼らに「札野」(牟礼野ともいう)の新墾地を代地として与えるとした。


吉祥寺村
きつしようじむら

[現在地名]三木市口吉川町吉祥寺くちよかわちようきつしようじ

善祥寺ぜんしようじ村の北、美嚢みの川中流左岸の丘陵地に位置する。単に吉祥寺とも称した。村内に真言宗吉祥寺があり、村名は同寺名に由来する。慶長国絵図に「吉禅寺」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが、寛永九年(一六三二)上知された(「寛政重修諸家譜」など)正保郷帳では田方六九石余・畑方三石余で、幕府領元禄郷帳では高九二石余。天保郷帳では一〇〇石余。この高には吉祥寺除地八石余が含まれる(旧高旧領取調帳)。延享元年(一七四四)から同三年までは大坂城代・出羽山形藩堀田氏領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)


吉祥寺村
きつしようじむら

[現在地名]玉城町玉川たまがわ 上玉川かみたまがわ

おか村の北にある。条里制の遺構がよくみられ、七ノ坪と八ノ坪の地名も残る。当地との関係は不明だが、法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「度会郡 吉祥迫」がみえる。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば村高一四九石余のうち田方一三六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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