名手庄(読み)なてのしよう

日本歴史地名大系 「名手庄」の解説

名手庄
なてのしよう

紀ノ川の北岸、しず(現穴伏川)水無みなせ(現名手川)の間にあり、東は伊都いとかせだ(現かつらぎ町)、東北部は静川しずかわ庄、西は粉河こかわ寺領(現粉河町)。初見は延久四年(一〇七二)九月五日付の石清水八幡宮寺宛太政官牒(石清水文書)で、「応に停止すべき庄」一三ヵ所のうちに含まれる。記録荘園券契所の勘奏によって延久以前の来歴も明らかで、もと藤原頼貞の相伝所領であったが、「無寄宿公民、所在田畠已為荒蕪(中略)私力耕作」という状況で頼貞から石清水いわしみず八幡宮寺に寄進され、康平七年(一〇六四)一一月の国符で立荘された。しかし「起請以後」すなわち寛徳二年(一〇四五)以後の立荘という理由で、記録荘園券契所は荘園としては停止を命じた。こうしていったん公領となったとみられるが、嘉承二年(一一〇七)正月二五日の官宣旨(「同案」又続宝簡集)により、高野山大塔仏聖灯油料として改めて立荘され、以後中世を通じて高野山の根本寺領の一として経営された。

右の官宣旨案には四至が「限東静河西岸、限南吉野河北岸、限西無水河、限北横峯」と明示され、面積は田四一町一段三〇歩(うち見作三町一段三〇歩・荒田八町・田代三〇町)、畠八二町二反(うち見作一二町二反・荒畠一〇町・畠代六〇町)と示される。当初は見作は少なく田代・畠代が多い。なおこの官宣旨案には「七箇郡(紀伊国)(中略)六箇郡者、毎郡十分之八九、已為庄領、公地不(中略)中伊都・那(賀)両郡中、十分之九已為庄領、僅所残一両村也」という有名な文言を含み、当庄に関しては「毎年国司検注、所当を計り用いよ」とする。つまり当郡は不輸不入権は認められていなかった。しかし元久元年(一二〇四)七月日付の金剛峯寺所司等申文(宝簡集)に「名手は専ら根本大塔の御領として、偏えに仏聖人供の用途に宛て、庄号以後一百余歳の間、役夫工等の公役すべて勤むる無し」とあるように、やがて不輸権が認められ、高野山による一円支配がしだいに実現されていったと思われる。

平安時代後期から室町時代後期まで、水無川をめぐって粉河寺領丹生屋にうのや(現粉河町)と激しい用水・境相論を繰りひろげ、当庄の歴史を彩る大事件となるが(粉河町の→粉河庄、それは同時に高野山領として開発が進行する姿でもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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