日本歴史地名大系 「名手庄」の解説
名手庄
なてのしよう
紀ノ川の北岸、田
寄宿
之公民、所在田畠已為
荒蕪
(中略)依
無
私力
不
能
耕作
」という状況で頼貞から
右の官宣旨案には四至が「限東静河西岸、限
南吉野河北岸、限
西無水河、限
北横峯」と明示され、面積は田四一町一段三〇歩(うち見作三町一段三〇歩・荒田八町・田代三〇町)、畠八二町二反(うち見作一二町二反・荒畠一〇町・畠代六〇町)と示される。当初は見作は少なく田代・畠代が多い。なおこの官宣旨案には「
庄領
、公地不
幾(中略)就
中伊都・那
庄領
、僅所
残一両村也」という有名な文言を含み、当庄に関しては「毎年国司検注、所当を計り用いよ」とする。つまり当郡は不輸不入権は認められていなかった。しかし元久元年(一二〇四)七月日付の金剛峯寺所司等申文(宝簡集)に「名手は専ら根本大塔の御領として、偏えに仏聖人供の用途に宛て、庄号以後一百余歳の間、役夫工等の公役すべて勤むる無し」とあるように、やがて不輸権が認められ、高野山による一円支配がしだいに実現されていったと思われる。
平安時代後期から室町時代後期まで、水無川をめぐって粉河寺領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報