粉河庄(読み)こかわのしよう

日本歴史地名大系 「粉河庄」の解説

粉河庄
こかわのしよう

粉河寺周辺部の粉河寺領をいうが、中世の史料には粉河寺領・粉河寺御領などと記されることが多く、独自の支配・所務機構をもった荘園とみることはできないように思われる。江戸時代初期に記された粉河寺旧寺領注文(粉河寺御池坊文書)には「天正十三乙酉年之兵乱迄、所務仕候」荘園の一として「粉河庄官符宣有、正暦二年十一月廿八日」と記される。この官符宣は江戸時代に書写されて粉河寺などに伝わるが、それは

<資料は省略されています>

の文章で始まる。なお別に高野山正智院文書中に、同じ官符宣の写があるが、日付が正暦五年(九九四)とあるほか本文にもかなり異同がある。全体の形式から、正智院文書がより原本に近いようにも思われるが、粉河寺ではこの正暦の太政官符を寺領の根本官符とし、その四至内を、江戸時代初期には粉河庄とみていた。四至は東限の水無みなせ川は現名手なて川、南限の南山峰は竜門りゆうもん山、西限のもん川は現松井まつい川、北限の横峰は葛城(和泉)山脈と考えられる。この四至内には中世のひがし・西・猪垣いのかけ丹生屋にうのや荒見あらみの五村が含まれ、中世にも粉河寺六月会の頭役を勤仕してきた(永享九年六月一八日付「粉河寺六月会頭役注文」王子神社文書等)。だがこれらの五村は「粉河寺領」ではあっても、粉河庄と称した中世の文書は文明一〇年(一四七八)八月二〇日に整理された王子神社名附帳(王子神社文書)以外にはみあたらない。東野ひがしのの王子神社に多数所蔵される中世文書のうち、売券類の所在地表示は「粉河寺御領」であって荘名はなく、丹生屋村は名手庄との間に鎌倉時代以来用水・境相論を繰返すが寛元元年(一二四三)七月一六日付の六波羅探題北条重時召状(宝簡集)にも「当寺(粉河)領紀伊国丹生屋村与高野山領同国名手庄相論」とあって、粉河庄丹生屋村と記された文書はない。正嘉元年(一二五七)八月日付の丹生屋村地頭品河清尚訴状(又続宝簡集)には「粉河寺領家聖護院僧正御房」の文言があるように、粉河寺自体、聖護院の末寺にあたるなど、中世の権門体制下にあっては、荘園領主たりえないようにも思われる。しいていえば、その寺領は聖護院領の荘園ということになるが、粉河寺領であること以外に、荘園としての実体は有していなかったのではなかろうか。当地内に東村を代表として惣結合が鎌倉時代後期という比較的早い時期から展開する一半の事情も、こうした点にあろう。

〔東村〕

粉河寺領内のうち惣村結合の早くみられるひがし村は、王子神社文書中最古の承元五年(一二一一)三月二七日付の比丘尼蓮阿弥陀仏田地売渡状に「在粉河寺御領内東村字悦谷南端」とあり、鎌倉時代初期から粉河寺領を構成する一村であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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