日本歴史地名大系 「粉河庄」の解説
粉河庄
こかわのしよう
粉河寺周辺部の粉河寺領をいうが、中世の史料には粉河寺領・粉河寺御領などと記されることが多く、独自の支配・所務機構をもった荘園とみることはできないように思われる。江戸時代初期に記された粉河寺旧寺領注文(粉河寺御池坊文書)には「天正十三乙酉年之兵乱迄、所務仕候」荘園の一として「粉河庄官符宣有、正暦二年十一月廿八日」と記される。この官符宣は江戸時代に書写されて粉河寺などに伝わるが、それは
の文章で始まる。なお別に高野山正智院文書中に、同じ官符宣の写があるが、日付が正暦五年(九九四)とあるほか本文にもかなり異同がある。全体の形式から、正智院文書がより原本に近いようにも思われるが、粉河寺ではこの正暦の太政官符を寺領の根本官符とし、その四至内を、江戸時代初期には粉河庄とみていた。四至は東限の
〔東村〕
粉河寺領内のうち惣村結合の早くみられる
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報