江川村(読み)えがわむら

日本歴史地名大系 「江川村」の解説

江川村
えがわむら

[現在地名]甘木市江川

上秋月村の北東、小石原こいしわら川の上流山間部に位置し、周囲に古処こしよ(八五九・五メートル)へい(九二六・六メートル)馬見うまみ(九七七・八メートル)もみ(六九三・九メートル)十石じつこく(五一三・三メートル)などの山々がそびえる。夜須やす郡に属し、南は下座げざ矢野竹やのたけ村、東は上座じようざ郡小石原村(現小石原村)、北は嘉麻かま東千手ひがしせんず(現嘉穂町)。元和九年(一六二三)から秋月藩領。「続風土記」によると、江川の村名は小石原川上流域に点在する下戸河内しもとごうち尾祓おはらい(御祓・尾払)井口いのくち(井ノ口)あゆがえり(年魚帰)大河内おおこうち高野河内こうのごうち栗河内くりごうちの七ヵ村の総称という。小早川時代の指出前之帳では江川村の田三町二反余(分米七八石余)・畠四町六反余(分大豆三六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一七三石余、うち大豆一一一石余(慶長石高帳)。同年の検地帳(秋月黒田家文書)によると、名請人数五一(うち屋敷持三七・無屋敷一四)


江川村
えかわむら

[現在地名]西土佐村江川

現西土佐村の最北に位置し、北から四万十しまんと川に流れ込む江川川流域の村。下山しもやま上分かみぶんの一村。「土佐州郡志」は「去高知二十九里、東西一里南北二里、(中略)其土多砂礫、村東有川流、其源出下田浦、此間十二里、有舟便運漕、中家村・庭田村・押谷村・大江村・市野々村・(権カ)谷村、右惣称江川村」と記す。

天正一七年(一五八九)の下山郷地検帳に「江川名」がみえ、江川名は江川村・小川村・平野ひらの村・中家なかいえ村・中家地なかいえじ村・押谷おしだに村・大江おおえ(太江・太得・大得と表記される村もあるが同一村か)一野々いちのの村・権谷ごんのたに村・永生名ながおいみよう村・まつくぼ(松ノクホ)村・下方村に所在している。また権谷名・江川庭田えかわにわだ名もみえ、前者は江川村・平野村・権谷村に、後者は庭田村に所在。なお右の江川村には、用井もちい名・半家はげ名・河崎かわさき名、押谷村には半家名、一野々村には用井名もあった。以上の関係と「土佐州郡志」が記す小村との対比から、地検帳時代の名・村と江戸時代の江川村との地域的関連がある程度推測できるが、確定は難しい。


江川村
えがわむら

[現在地名]足利市江川町・江川町一―三丁目

田島たじま川を合流したふくろ川の流域、阿部あべ山の東麓一帯に位置し、東は利保かかぼ村。慶安郷帳に村名がみえ、「足利長尾顕長家来」に当村の者として江川左衛門(永五〇貫文)の名がみえる。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利直領となる。万治元年(一六五八)利直が大名に列し下総大輪藩領となるが、延宝五年(一六七七)廃藩となり、旗本土井領となって幕末に至る。


江川村
えかわむら

[現在地名]川辺町江川

日高川の支流江川川に沿って広がる。北は和佐わさ村、東は上流の山野さんや村。伊都いと郡かつらぎ町の丹生都比売にうつひめ神社に古代より伝わるという丹生大明神告門に「日高郡江川丹生爾忌杖刺給比」とみえる江川は当地にあたるとされる。「続風土記」に「上古は此辺入江にして川流其江に入る故に江川の名起れるなり」とあり、上下の二村として記す。


江川村
えがわむら

[現在地名]勝山町江川

新庄しんじよう川の下流に沿い、東城とうじよう往来が通る。山に囲まれ、西は荒田あらた村、東は三田さんでん村。正保郷帳に村名がみえ、田高八〇石余・畑高七四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では村位は中、改出高五七石余・開高一四石余。「作陽誌」では家数五二・人数二九五。領主の変遷は津山藩森家断絶後、幕府領となり、明和元年(一七六四)勝山藩に編入され幕末に至る(「美作国郷村支配記」など)。文化四年(一八〇七)宗門改帳(山谷文書)によれば村は上分・下分に分れており、上分では真言宗檀家三八人、うち三田村観音寺三七・月田本つきだほん村八幡寺一、禅宗は一一人で、すべて高田たかた化生かせい寺の檀家。


江川村
えがわむら

[現在地名]五霞村江川

江戸川権現堂ごんげんどう(現在は中川)合流点西方に所在。かつては北と西に沼地が五ヵ所あり、その周囲は湿地帯であった。北は山王さんのう村。江戸川にちなんで江川村と称すると伝えられる。西部の字土塔どとうに土塔貝塚があり、縄文土器・石器、弥生土器片が出土。字橋向はしむかい江川遺跡は古墳時代。

江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。寛文一一年(一六七一)の関宿領茂右衛門御代官場石高覚帳(松本好司文書)には本高九九・六八六石のほかに一〇五・一七七石があり、合計村高二〇四・八六三石。天保九年(一八三八)の葛飾郡五拾四ケ村組合諸商渡世向取調書上帳(同文書)によると村高二〇四・九一三石。家数七五のうち六一は農業専門、一四軒が農間商・諸職人で、居酒渡世四軒は三年前より休業。


江川村
えがわむら

[現在地名]木更津市江川・西岩根にしいわね

中里なかざと村の北に位置し、西は江戸湾に面する。年未詳六月二五日の里見義頼寄進状(西門院文書)に「江河之村手前之分」とみえ、江河村の里見氏の所領が神野じんや(現君津市)に寄進されている。江河は当地にあたるとも考えられる。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に小田原北条氏の半手所領「江川」がみえ、敵対する北条氏と里見氏の双方に年貢を半分ずつ納めている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九七石。天保郷帳では高一三九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によれば家数七六、旗本土屋・間宮両氏の相給。嘉永三年(一八五〇)以降の領主の変遷は木更津村に同じ。


江川村
えがわむら

[現在地名]浜松市下江町しもえちよう

下中島しもなかじま村の西に位置。西をほう川が流れ、西対岸は大柳おおやぎ村と鼠野ねずみの村。近世初頭は江川畑村と称された。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)にみえる「江河はた」四三石余は当村にあたる。松平忠頼領郷村帳では江川畑村として高二八石余、田一町二反余・畑二町余、うち川成一石余。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録にも江河畑村とみえる。正保郷帳には江川村とみえ田一二石余・畑一六石余。領主の変遷は西にし村と同じ。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図では本田二五石余・新田五石余、百姓林二反余。


江川村
えがわむら

[現在地名]天王町大崎 江川

船越ふなこし水道旧河道の東岸、天王村の東南に位置する。菅江真澄は「男鹿の秋風」に「伊賀(江川)といふやかたに至る。こゝより湖海みつうみのへたをつたふ。小舟、こゝらこぎ出てひきつらなれり。潮湍しほぜの浪も、この浦の水門にうち入りく」と潟続きの河口に小舟の連なる様を記している。

元和四年(一六一八)の天王村肝煎文書(天王町誌)に「舟越村の江川谷地・塩口・いまかまや・天王村、右四ケ村新開きのこと心得候」とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」によれば、江川村は海岸に破船などがあれば船越番所に届け出ることになっており、船越村の支郷扱いであった。


江川村
えがわむら

[現在地名]安芸市川北かわきた 江川

横山よこやま村の北、四囲を低い丘に囲まれた盆地で、東の山裾を江川川が、西の丘陵の外側を安芸川が南流する。江川川に沿って北東のはちたに入河内にゆうがうちに通じる道が通る。川北村の枝村。天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳には「川北江川・横山御地検帳」と題する一冊があり、江川村として一八〇筆が記されるが、四分の一の四六筆が横山又十郎給、直分が二一筆ある。元禄郷帳では本田高二六三・五八石。


江川村
えがわむら

[現在地名]大洋村江川

北浦の東岸低地に位置し、東は中居なかい村。鎌倉・室町時代を通じて、中居氏の支配下にあったが、天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百四拾六石三斗五升 ゑ川」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高三〇〇石余で、太田・植村両氏が支配した。江川河岸があり、元禄三年(一六九〇)四月に幕府が江戸への年貢米輸送の運賃を定めた関八州伊豆駿河国廻米津出湊浦々河岸之道法并運賃書付(徳川禁令考)には「江川河岸 江戸川通六拾五里 運賃米百石ニ付五石」とある。


江川村
えがわむら

[現在地名]熊谷市新川しんかわ

大里郡おし領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地末端に位置し、北はふる(荒川の旧河道)を境に久下くげ村、南は荒川を境に江川下久下村(現大里村)。同書に「正保・元禄ノ改ニハ載セサレト、土人ハ古ヨリ一村タリシト云」とあり、寛永六年(一六二九)の荒川の瀬替えの際に村域が二分され、南岸は江川下久下村となる。同一六年に忍藩領となったとみられ、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳には下久下村のうちとして江川邑とみえ、百姓本人二八、家内人数一九三、馬一一。


江川村
えがわむら

[現在地名]笠松町江川

無動寺むどうじ村の北東、木曾川北岸に位置。天正三年(一五七五)一月二四日織田信長は、蔵入分代官祖父江五郎右衛門尉らに対し、江川堤などの毎年の修理を怠らないよう命じている(「織田信長朱印状」氷室和子氏所蔵文書)。「新撰美濃志」に「此所川中に島ありて水二筋に流れ、水勢はげしき故にや、洪水に堤の切るゝ事度々なり。慶長十一年六月三日の大水に、江川村・平島村辺の堤決る。同十七子年四月二十九日同じく所々堤決る。元和五未年八月七日同所堤決る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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