日本歴史地名大系 「羽生市」の解説 羽生市はにゆうし 面積:五八・五五平方キロ県の北東部に位置し、都心より五五キロ圏にあたる。東と南は加須(かぞ)市、西は行田市とそれぞれ接する。北は利根川を境として群馬県邑楽(おうら)郡明和(めいわ)村および板倉(いたくら)町に対している。昭和二九年(一九五四)成立。市名は市域の中心であった羽生町による。市域は東西約一一・二キロ、南北約八・二キロで、利根川右岸に位置し、関東構造盆地の一つ加須低地に属する平坦な地形を示している。旧利根川の乱流原にあたるこの地方は、その旧河道に沿って北西から南東に向けて、縞状に自然堤防や河畔砂丘がみられる。市域の最高点は、新郷(しんごう)地区河畔砂丘上にある三角点の標高二六・四メートルであり、全体的傾向としては、市域北西端の別所(べつしよ)地区周辺の標高約二〇メートルを高所とし、市中央部羽生町場(はにゆうまちば)地区で標高約一五メートル、南東端の中手子林(なかてこばやし)地区で約一三メートルとなっている。全体として北西より南東にゆるやかに傾斜する地形のなかに、洪積世のローム台地の埋没地形や後背湿地的な泥炭地が発達している。市域の河畔砂丘は会(あい)の川の東側にあるが、形成年代は鎌倉時代以降とみられている。東武伊勢崎線・秩父鉄道・国道一二二号が通り、東北自動車道羽生インターチェンジがある。〔原始〕利根川右岸の自然堤防上に縄文時代中期・後期・晩期の発戸(ほつと)遺跡が所在する。浅鉢・深鉢・壺・注口土器・独鈷石・石棒・石皿・石斧のほか、土面(文化庁所蔵)が発見されている。土面は写実的で晩期初頭のものである。古墳は、市街地の毘沙門山(びしやもんやま)古墳を中心とした羽生古墳群をはじめ、新郷古墳群・井泉(いいずみ)古墳群・小松(こまつ)古墳群・村君(むらきみ)古墳群があるが、利根川の氾濫土砂堆積により埋没したものである。利根川右岸の自然堤防上に展開する村君古墳群の主墳永明寺(ようめいじ)古墳は、墳丘長七八メートルの前方後円墳で、主体部は緑泥片岩と河原石を用いた竪穴系の石室と推定されている。昭和六年の発掘で出土した副葬品は、金環・鉄鋸・衝角付冑・挂甲小札・大刀・刀子・鉄鏃・馬具がある。これらの内容からみて、この古墳の築造年代は六世紀前半と考えられる。小松古墳群では水田下から横穴式石室が発見され調査されている。また、平成五年(一九九三)には市立西(にし)中学校敷地内(羽生市十五号遺跡)から、旧石器時代や縄文時代の遺物のほか、古墳時代前期の竪穴住居跡一五、中・近世の井戸跡や土壙が発掘されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「羽生市」の意味・わかりやすい解説 羽生〔市〕はにゅう 埼玉県北東部,利根川右岸にある市。1954年羽生町と新郷村,須影村,岩瀬村,川俣村,井泉村,手子林村(てこばやしむら)の 6村が合体して市制。中心市街地の羽生は,江戸時代は日光街道,中山道の中間の脇往還の宿場で青縞織の市場町として栄えた。1902年東武鉄道伊勢崎線,1920年秩父鉄道が開通してからは足袋,被服類製造の町へ転換。はきもの,被服関係企業のほか,電機・輸送用機器,農機具などの工場も立地。利根川沿いの川俣は,旧利根川の河港で関所跡がある。田山花袋の『田舎教師』の舞台で知られる。市域北東の三田ヶ谷にある「宝蔵寺沼ムジナモ自生地」は国の天然記念物。羽生水郷公園内にさいたま水族館がある。東部を東北自動車道が通り,インターチェンジがある。面積 58.64km2。人口 5万2862(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報