向国安村(読み)むこうくにやすむら

日本歴史地名大系 「向国安村」の解説

向国安村
むこうくにやすむら

[現在地名]鳥取市向国安

千代川西岸の氾濫原に位置し、邑美おうみ郡に属する。高草郡倭文しとり村へ通じる道(砂見往来)が通り、西は高草郡竹生たけなり村。東岸の国安くにやす村の出村で、天保五年(一八三四)に国安村新田として届出された(藩史)。宝永六年(一七〇九)五月の年貢免状(林家文書)は当村に初めて発給されたもので、この年から独立した村として扱われたことがわかる。同年貢免状によると朱高二七七石余,本免六ツとなっているが、本免は国安村のものを踏襲したにすぎない。朱高の内訳は井手西六一石余(免四ツ)、井手東卯開六四石余(免三ツ)、井手東辰より子までの開一五〇石余(免二ツ)である。まず用水井手が作られてその西側が開発され、東側は元禄一二年(一六九九)までに卯開が、翌年から宝永五年までに残りの部分が開発され高付されたと推定できる。集落はこの間に形成されたとみられる。

嘉永元年(一八四八)まで一九通の年貢免状(林家文書)が残るが、村高はすべて蔵入となっている。享保九年(一七二四)には生高三九一石余で免は変わらないが、井手東の免二ツの高が二七二石余と著しく増加している。宝暦四年(一七五四)には村高五七三石余・荒高一四一石余・生高四三二石余となり、免は一ツ五分から四ツ五分まで七段階に分けられている。開発が進む一方水害などによる被害も少なくない。文化八年(一八一一)には村高六一九石余・生高四三九石余、嘉永元年には村高五三八石余・生高四四二石余・物成一二八石余で免は二ツから四ツ五分まで六段階ある(各年の年貢免状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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