円通寺村(読み)えんつうじむら

日本歴史地名大系 「円通寺村」の解説

円通寺村
えんつうじむら

[現在地名]鳥取市円通寺

八坂はつさか村の南、千代川右岸に位置し、八上やかみ郡に属する。縁通路とも書く(因幡志)鳥取城下から南下した智頭ちず街道が千代川の自然堤防上を通り、当村の南にある渡船場から対岸八上郡布袋ほてい(現河原町)に渡る。上流渡一木わたりひとつぎ(現同上)の渡船場かみの渡に対し下の渡とよばれた(同書)。拝領高は三三七石余、本免五ツ六分。藪役銀一二匁六分・川役米一石八斗を課せられていた(藩史)。岩越・林・高島田淵・絹川各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数七二。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四八六石余、竈数八五。寛文大図(倉田八幡宮蔵)によると智頭街道沿いに茶屋、下の渡付近の道両側に一里塚と御留場杭がある。


円通寺村
えんつうじむら

[現在地名]開成町円通寺

東と北に延沢のぶさわ村、南は中名なかのみよう村、西は壗下まました(現南足柄市)と接する。近世は小田原藩領。正保国絵図に村名がみえる。伝承によれば、往古ヶ村(現山北町)円通寺の十一面観音像が洪水により漂着し、奉祭した七軒が中名村から分村独立したという。享保一三年(一七二八)酒匂さかわ川水防役金井島かないしま堤組合に属した(「大川通堤持分出水防定書」県史七)


円通寺村
えんつうじむら

[現在地名]竹野町須谷すだに

須谷村の西に位置し、村名は寺院円通寺に由来。江戸時代の領主変遷宇日うひ村に同じ。正保(一六四四―四八)成立国絵図に村名がみえ、高三七石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。出石封内明細帳には単に円通寺とみえ、「御領地目録作円通寺村」と注記する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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