君島村(読み)きみじまむら

日本歴史地名大系 「君島村」の解説

君島村
きみじまむら

[現在地名]真岡市君島

小貝こかい川左岸に接し、八溝やみぞ山地西麓の台地が迫る。古くは黍美島きみしままたは黍島と書き、中世初期に君島が用いられたという。君島系図(続群書類従)によれば、大須賀八郎左衛門嗣胤は、宝治元年(一二四七)宇都宮頼綱を頼って下野国に下り、君島郷に住したので、これを姓としたという。慶長六年(一六〇一)真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領、天和三年(一六八三)旗本毛利(稲葉)知行、明和七年(一七七〇)より幕府領


君島村
きみじまむら

[現在地名]入善町君島

黒部川扇状地の末端部に近く、北は八幡やはた村、東は椚山新くぬぎやましん村、西と南は入膳にゆうぜん村。享保三年(一七一八)とまり(現朝日町)の移転までは北陸街道(下街道)は北の八幡村のほうに延びていたが、移転後は東の椚山新村のほうに延びるようになった。新旧の北陸街道は当村の中で交差し、道しるべ石柱がその交差点に残る。当村には道番人が置かれていた。宝永元年(一七〇四)の村名由来書上(清原家文書)によれば、この辺りはかつて黒部川中の島で、この島に高位の人がいたので君島ととなえ、村名になったと記している。慶長一五年(一六一〇)の神尾図書助の知行所目録(神尾家文書)に「七拾壱石弐斗 入膳組君嶋村 但免三つ弐分」と記される。


君島村
きみじまむら

[現在地名]阿見町君島

西は清明せいめい川を隔てて追原おつぱらはなわ両村、南は大形おおがた村。慶長一一年(一六〇六)に仙台藩領となり、同年三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「四百弐拾弐石九斗七升九合 君嶋」とある。幕末も仙台藩領で村高は四五七石余(各村旧高簿)。文政元年(一八一八)当村の伊藤覚兵衛が大師講(新四国霊場巡拝)をはじめた(小沢家文書)。また当村から興津おきつ(現美浦村)にかけての畑地は明治一六年(一八八三)にもと土浦藩主土屋挙直が開墾させた所で、旧藩士神田道教が幹事補となって六〇戸が開墾にあたったので、土屋開墾とよばれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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