吹田庄(読み)すいたのしよう

日本歴史地名大系 「吹田庄」の解説

吹田庄
すいたのしよう

千里丘陵の南東端が安威あい川下流域に向かって南西に延びる台地周辺に散在した庄園。その所在範域については、寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)倉殿くらどの名一色方田数および同名内山田やまだ名の各筆四至に吹田東庄・西庄名がみえ、それらに「二池ふたついけ」「まつはな」「糸田いとだ」などの字名があって、東は現岸部きしべ地区の南部から西はいずみ町辺りまで、市域南部に散在していたと考えられる。

〔清住寺領吹田庄〕

平安時代は山城醍醐寺末清住せいじゆう寺領であった。「醍醐雑事記」によれば、貞観七年(八六五)二月二日淳和天皇の子基貞親王に六三町余が与えられたが、その家領が同寺領となっており、基貞親王から清住寺に寄進されたと思われる。本寺の醍醐寺が朝廷や院の尊崇を集めたことから、当庄に対しては保安五年(一一二四)に臨時の雑事、保延五年(一一三九)に萱苅役、久安六年(一一五〇)に斎宮帰京臨時役、仁平二年(一一五二)に伊勢役夫工米などがそれぞれ免除されており、国家の保護を得ていた(醍醐雑事記)。当庄の負担は、久安五年の座主房雑事日記(同書)によれば、正月に供用例進の餅一五〇枚、五月の節供に粽五〇把、七月の七夕に小折櫃に入った餅四五合、ほかに庄役雑事として藁三〇〇束、醍醐寺三宝院へ元三の雑菓子などがあり、仁平四年には寺家修理料の例縄六〇方を負担している。年貢については寺家庄々斗升(同書)に清住寺吹田庄本斗とみえ、額は不明であるが、清住寺に納入していたようである。また久寿二年(一一五五)には、前座主の定海大僧都が潮湯治を行い、摂津河内の諸庄から海水を運ばせたが、吹田庄民は三九荷(一荷は四斗入)を船で淀川をさかのぼって岡野おかのや(現京都府宇治市)まで運び、そこからは政所法師らが醍醐寺に運んだ(「大僧都定海湯治記」同書)。このような負担からみて、当庄の本所は醍醐寺で、清住寺は領家であったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報