吹田村(読み)すいたむら

日本歴史地名大系 「吹田村」の解説

吹田村
すいたむら

[現在地名]吹田市もと町・内本うちほん町一―三丁目・高浜たかはま町・南高浜みなみたかはま町・川園かわぞの町・日の出ひので町・末広すえひろ町・片山かたやま町一丁目・昭和しようわ町・高城たかしろ町・朝日あさひ町・西の庄にしのしよう町・東御旅ひがしおたび町・西御旅にしおたび町・中の島なかのしま町・寿ことぶき町一―二丁目・清和園せいわえん町・南清和園みなみせいわえん町・いずみ町一―五丁目・金田かねでん町・穂波ほなみ町・川岸かわぎし町・南吹田みなみすいた一―五丁目・南金田みなみかねでん町一―二丁目・目俵めだわら町・天道てんどう町・さいわい町・吹東すいとう町など

島下しましも郡の南端(現吹田市の南端)に位置し、西は糸田いとだ川を隔てて豊島てしま垂水たるみ村、南は神崎川を挟んで西成にしなり郡の諸村(現東御旅町・西御旅町のみ神崎川南岸)。全体に平坦な地形で村の中央をほぼ南北に亀山かめやま街道が通る。三国みくに(神崎川の古名)と淀川の連結以来、淀川水系の舟運基地として栄え、鎌倉時代には貴族の別業も営まれた。平安時代以来皇室領吹田御厨が設けられており、山城醍醐寺末清住せいじゆう寺領吹田庄があった。舟運上の要地であることは近世に入っても変わらなかったとみえ、天正一〇年(一五八二)一〇月には「当手軍勢乱妨狼藉之事」「放火之事」「相懸矢銭兵粮之事」の三ヵ条からなる禁制が豊臣秀吉から吹田津宛に出されており、ほぼ同内容の禁制が同一一年正月には丹羽長秀と池田信輝から出されている(橋本家文書)。徳川氏の時代になっても保護政策は続けられた(慶長五年九月二一日「徳川家康禁制写」同文書ほか)

太閤検地は文禄三年(一五九四)に行われ、同年九月の大田郡吹田村検地帳(早田家文書)によると高三千一七三石余、うち荒地が一〇二石余あった。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図でも同高。ただし吹田村ほかおく村・西庄にしのしよう村・河面かもづら村など計五村の合計高になっている。なおこの頃には吹田村は侍内じない六地蔵ろくじぞう・河(川)面・都呂須とろす宮前みやのまえほり・奥・はまどう・西庄の九集落からなっていたという。元和初年の摂津一国高御改帳には「吹田東西」とあり同高。一千四三石余は片桐主膳預の幕府領、二千一三〇石は旗本竹中領(慶長六年から)。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では三千二七〇石余、うち京都所司代板倉重宗領一千一三六石余(元和五年からか)・竹中領一千六三一石余・旗本柘植領五〇二石余。板倉領はのち(寛文四年以前か)上知して幕府領となる。天和元年(一六八一)稲葉正往が京都所司代に任命され、当村に領地を与えられているので、幕府領は稲葉領になったと思われる(吹田市史)。稲葉領は同三年再び幕府領となった(同書)。元禄郷帳によれば幕府領・竹中領・柘植領の三給、ほかに山城淀藩石川領・高槻藩永井領の「吉志部吹田出作」が記される。


吹田村
ふきたむら

[現在地名]板野町吹田

川端かわばた村の西、阿讃あさん山脈の南麓にあり、南は大寺おおてら村。中央を南に大坂谷おおさかだに川が流れ、讃岐街道がほぼ南北に通る。慶長期(一五九六―一六一五)に土佐国から吉田次郎兵衛が被官とともに移住し、大寺村内を開発し分村したと伝え(板野町史)大坂峠の登山口を占めるという要地であったことから急速に町場的な性格を強めていった。元和三年(一六一七)から年貢を賦課されたとみられ、同年の「吹田町」宛の覚(吉田家文書)によれば年貢は同年改の枡で納めること、年貢定は八兵衛(斎藤氏か)・勘解由(稲田氏か)の両人が取決めること、木綿を年貢として出すことを禁止すること、百姓を自分用に使役することの禁止などが定められている。寛永二年(一六二五)当村と鍛冶屋原かじやばら(現上板町)は蜂須賀忠鎮から諸役を免除されている(「諸役免許状」民政資料)

正保国絵図では高九六石余、新田とあり、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では村名の記載がない。延宝二年(一六七四)の反高指出帳(吉田家文書)には高八五石余、反別二六町余のうち二三町余までが畑で占められていた。


吹田村
ふきだむら

[現在地名]夜須町吹田

中牟田なかむた村の北にあり、砥上とかみ(四九六・五メートル)の南西麓にあたる。村の西を天神てんじん(宝満川支流)が南流する。枝村にまき村がある(天保郷帳など)。保安元年(一一二〇)六月二八日付で観世音寺(現太宰府市)は公験等の案文(筒井寛秀氏所蔵文書/大日本史料三―二四)を進上して奈良東大寺の末寺となったが、その目録中に「吹田荘文書一通 員捌枚」とあり、同庄は観世音寺領であった。仁平三年(一一五三)四月二九日の東大寺領諸庄園文書目録(慈光明院所蔵文書/平安遺文六)には観世音寺の項目中に「一巻八枚 延喜九年吹田庄例文」がみえる。なお康正二年(一四五六)一一月七日の筑前夜須郡段銭注文(三浦家文書/大日本古文書一四)では段銭を賦課された諸所のなかに「赤坂対馬守給赤坂村・吹田村広大名」がみえ、当時は赤坂対馬守の所領であった。


吹田村
ふけだむら

[現在地名]大津町吹田

もり村の東にあり、南部を瀬田下せたした井手が貫流し、北方を瀬田上せたうわ井手が流れている。「国誌」によると、天正(一五七三―九二)の頃加藤氏によって宿駅を設けるため白川沿いから当地に移されたという。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると名請人一二人(うち屋敷持九)、畠・屋敷四六町六反余、分米二九八石九斗余。同一三年の検地帳では、人数六〇、屋敷持三〇・家五三、牛馬一七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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