日本歴史地名大系 「垂水東牧」の解説
垂水東牧
たるみのひがしまき
- 大阪府:吹田市
- 垂水東牧
〔成立と範囲〕
「康平記」康平五年(一〇六二)正月一三日の春日詣定の条に、七日朝の屯食(強飯の握り)八具のうち垂水東三具・垂水西三具の負担がみえ、一一世紀の半ばには島下郡に垂水東牧、豊島郡に垂水西牧が設立されていた。これより先、「西宮記」天暦三年(九四九)一〇月二三日条に、村上天皇が駒索の馬を近衛府に分け取らせ、当時親王にも賜った残りを垂水牧に賜った記事があるが、これは馬を直接放繋したと解されることから、この垂水牧は「延喜式」に左馬寮から国に移して放飼させることと規定されている播磨国垂水牧ではなく、摂関家所属の摂津国垂水牧でないかとする考えがある。この考えに従えば、成立期は一〇世紀半ばにさかのぼる。昌泰元年(八九八)一一月一一日の太政官符(類聚三代格)によれば河内・摂津の淀川沿いに多くの公私の牧があり、牧子らが往還の船に濫妨するのを停止しているから、垂水牧がかなり早くから成立していた可能性はあり、官牧である近都牧の成立からあまり下らない時期に成立していたのではなかろうか。
史料上にみえる当牧関係の地名をあげると、中条
〔負担〕
本来は牧として摂関家の牛馬の飼育にあたっていたのであろうが、平安末期の摂関家の家政状況を伝える「執政所抄」によれば、正月の供御座の薦、春日社の三月神楽の雑事、四月の賀茂詣の篝火用の折松、五月の節供の菖蒲、高倉殿(忠家)御忌日の供養米などを負担している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報