日本大百科全書(ニッポニカ) 「吾妻与次兵衛」の意味・わかりやすい解説
吾妻与次兵衛
あづまよじべえ
俗謡に歌われた人物名。寛文(かんぶん)(1661~1673)のころ実在したという大坂の遊女富士屋吾妻と摂津山本村の大尽与次右衛門(よじえもん)との情話がもとで、「あづま請け出せ山崎与次兵衛……」という流行唄(はやりうた)が生まれた。近松門左衛門は、これをヒントに浄瑠璃(じょうるり)『寿(ねびき)の門松(かどまつ)』(1718・竹本座初演)のなかで藤屋吾妻と山崎与次兵衛の情話を書き、さらに西沢一風、田中千柳合作の『昔米万石通(むかしごめまんごくとおし)』(1725・豊竹座)を改作した竹田出雲(いずも)、三好松洛(しょうらく)、並木千柳の『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』(1749・竹本座)が好評を得てからは、与次兵衛の子与五郎と吾妻の情話になり、多くは濡髪(ぬれがみ)長五郎と放駒(はなれごま)長吉の2人の相撲取りを絡ませて脚色するようになった。「吾妻与五郎物」または「双蝶々物」とよばれる系統でおもな歌舞伎(かぶき)脚。本に初世桜田治助作『関取菖蒲絺(せきとりしょうぶかたびら)』、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作『春商恋山崎(はるあきないこいのやまざき)』『当穐八幡祭(できあきやわたまつり)』、2世瀬川如皐(じょこう)作『御摂曽我閏正月(ごひいきそがうるうしょうがつ)』がある。
[松井俊諭]