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人形浄瑠璃(じょうるり)の劇場。初世竹本義太夫(ぎだゆう)(筑後掾(ちくごのじょう))が興行師竹屋庄兵衛(しょうべえ)と提携し、1684年(貞享1)大坂道頓堀(どうとんぼり)に創設、作者に近松門左衛門、人形遣いに辰松(たつまつ)八郎兵衛、三味線に竹沢権右衛門(ごんえもん)らを擁し、浄瑠璃界に新風をおこした。しかし竹田からくり芝居や歌舞伎(かぶき)に押されて経済的には恵まれなかったが、1703年(元禄16)の『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』の大当りで負債を返した。筑後掾が病気引退したのち、1705年(宝永2)初世竹田出雲(いずも)が座本となって経営を引き受け、筑後掾の再出馬を得て興行方針を刷新、傾いた座運を盛り返した。1714年(正徳4)筑後掾の没後、政太夫が2世義太夫(播磨少掾(はりまのしょうじょう))を継ぎ、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の大成功によって竹本座の確固たる地位を築いた。近松の死後の作者には、座本の出雲、文耕堂、長谷川千四、並木千柳(せんりゅう)、三好松洛(みよししょうらく)ら、人形遣いに吉田文三郎があって、竹本座の隆盛に貢献した。かくて18世紀中ごろ(享保末~宝暦)には人形浄瑠璃全盛期を迎え、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』などの名作を続々上場して、豊竹(とよたけ)座(1703創設)とともに歌舞伎を圧倒した。当時竹本座のじみな芸風を西風(にしふう)、はでな豊竹座を東風とよんだ。その後、歌舞伎の興隆に押されて衰え、最後の名作者近松半二の努力もむなしく、3世出雲の代の1767年(明和4)に退転、その後一時復興したが続かなかった。
[山本二郎]
人形浄瑠璃の劇場。竹本義太夫により1684年(貞享1)大坂道頓堀に設立された。1705年(宝永2)竹田出雲を座本に,近松門左衛門を座付作者に迎え,興行界に確固たる位置を占めるようになった。筑後掾(義太夫)没後の危機も,《国性爺合戦》の成功や竹本政太夫(播磨少掾)らの活躍で切りぬけた。近松亡きあと,出雲,松洛,文耕堂ら合作による人形浄瑠璃の名作が,此太夫(筑前少掾),2世政太夫や人形の吉田文三郎らで上演され,豊竹座と競いつつ盛況をきわめた。豊竹座の東風に対して,地味で写実的な竹本座の浄瑠璃の様式は西風とよばれ(風),人間を深く表現した。しかし,《仮名手本忠臣蔵》上演時の騒動で,大勢の太夫が豊竹座側と入れ替わり,両座の様式は混交をみることとなった。やがて,人気が歌舞伎に移ってゆくと,経営も困難となり,豊竹座についで67年(明和4)退転を余儀なくされた。
執筆者:井野辺 潔
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1684~1767年(貞享元~明和4)の間,大坂道頓堀で人形浄瑠璃を興行した劇場。語り手の竹本義太夫,三味線弾きの竹沢権右衛門らが創立。人形浄瑠璃史上最も著名な劇場であり,義太夫節もここから誕生した。初期には,作者の近松門左衛門,人形遣いの辰松八郎兵衛,座本の初世竹田出雲らが興行を支えた。義太夫が筑後掾を受領したので筑後芝居とも,道頓堀東側の豊竹座に対して西の芝居ともよばれた。竹本座の人形浄瑠璃の演劇的特徴を西風(にしふう)という。
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…ふつう浄瑠璃を語る太夫1人,三味線1人で演奏するが,掛合といって大勢で演じたり,箏,胡弓,八雲琴や,ツレ弾きの三味線が加わる曲もある。
[歴史]
1684年(貞享1),竹本義太夫(筑後掾)が大坂道頓堀に竹本座を創設して,独立興行に踏み出したときにはじまる。義太夫は井上播磨掾の系統をひき,宇治加賀掾の技法・曲節を摂取して,人間を語る近世的な浄瑠璃を確立した。…
…江戸中期の浄瑠璃作者,竹本座座本。出雲の名は大坂道頓堀からくり芝居興行師竹田近江の最初の受領名から出る。…
…さらに,京都で人気の宇治嘉太夫(宇治加賀掾)のワキを語る。四条河原での独立興行に失敗,中国筋巡業のあと,1684年(貞享1)道頓堀に竹本座を建てて旗揚げに成功した。翌年,下坂し競演した加賀掾を退け,確固たる地位を築き,1698年(元禄11)正月以前に筑後掾藤原博教を受領した。…
…父は伊藤東涯の門人穂積以貫(これつら)。父以貫は儒者ながら大坂の竹本座の文芸顧問をつとめたこともあり,近松門左衛門と親交深く,浄瑠璃評注釈《難波土産》(1738)所載の近松の芸術論(いわゆる〈虚実皮膜(ひにく)の論〉)も以貫の聞書きとされている。半二は青年時は放蕩したと伝えるが,2世竹田出雲(外記)の門に入って竹本座の作者となり,近松に私淑してその姓を名のった。…
…しかし中世色の濃い説経風の古浄瑠璃,角(かく)太夫節なども民衆の根強い支持を保ち,他方,古典的な優雅な題材を扱いつつ現代風俗をも摂取して浄瑠璃の地位を高めた宇治加賀掾は,近松初期の作品《世継曾我》(1683∥天和3)などを演じ,古浄瑠璃と義太夫節の橋渡し的存在となった。
[近松・義太夫時代――1680年代~1720年代]
宇治加賀掾のワキをつとめていた竹本義太夫(筑後掾)は1684年(貞享1)大坂道頓堀,現在の浪花座の位置に竹本座を創立,歌舞伎と肩を並べる現代劇としての義太夫節を創始した。義太夫節は,古浄瑠璃に比べ,詞が写実的に語られ,地の文も一字一句詞章に即し綿密に節付けされ,単に優美・哀調・豪快等の情趣を漂わせる以上に,劇的緊張感の醸成に最も注意が払われる。…
…本名松田和吉。享保(1716‐36)ごろの大坂竹本座の作者で,初めは本名の松田和吉で書いたが,1730年2月の《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(竹本座)からは文耕堂の署名となる。作品は1722年9月の《仏御前扇車(ほとけごぜんおうぎぐるま)》が古く,これは翌年の《大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)》とともに,添削者に近松門左衛門の名前があることから,近松に師事していたといわれている。…
…浄瑠璃の作者名吉田冠子(かんし)(初世)。竹本座創設期の立役遣い吉田三郎兵衛の子で幼時から父に学び,1717年(享保2)竹本座で初舞台。長じて竹本座の人形遣いの中心となり立役,女方ともに優れた。…
※「竹本座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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