呉 錦堂
ゴ キンドウ
ウ/ジンタン
明治・大正期の実業家 神戸支那商工会議所会頭。
- 生年
- 咸豊5年9月(1855年)
- 没年
- 大正15(1926)年11月25日
- 出生地
- 清国・浙江省
- 経歴
- はじめ生地の清国(中国)で農業や商業に携わり、のち対日貿易に従事。明治18年販路拡張のため長崎に渡来、大阪から神戸へと移り、呉錦堂合資を組織、特に中国向けにマッチの輸出を行う。37年日本に帰化。日露戦争中、武藤山治らと結びつき、紡績株の売買で巨利を博し、さらに東亜セメント、小野田セメント、大阪メリヤスなどの大株主となる。他に中華会館理事長、神戸支那商工会議所会頭なども務め、神戸同文学校を設立するなど、在日中国人の慈父として尊敬された。孫文との交流も有名で、別荘の移情閣は孫中山記念館となっている。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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呉錦堂
没年:昭和1.11.25(1926)
生年:咸豊5(1855)
明治大正期の在日中国人貿易商。中国読み「ウ・ジンタン」。浙江省の生まれ。上海での商業活動を経験し,明治18(1885)年に長崎へ渡来,23年に神戸に移り,怡生号という貿易会社を設立。開港後の上海は,中国の内外流通の中継点であり,拡大する商業機会に乗じて台頭したと考えられる。海運業にも力を入れ,自船による活動は競争力を高めた。神戸に近代的綿糸紡績業が発展するや,外国棉花の需要拡大に対応して,中国棉花取引の25%を占める勢いを示す。営業税345円の納入実績(1901年)は,在日中国商のなかでも上位の成績であった。紡績業との関わりでは,大株主でもあった鐘淵紡績との関係が強い。のちに,東亜セメント,大阪莫大小を設立するなどの多角化は,流通から生産過程へ進出する企業家としても注目される。孫文との交流も有名であり,神戸の別荘であった移情閣は孫中山記念館として残されている。<参考文献>中村哲夫『移情閣遺聞』,籠谷直人「アジアからの“衝撃”と日本の近代」(『日本史研究』344号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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呉錦堂 ご-きんどう
1855-1926 明治-大正時代の貿易商。
咸豊(かんぽう)5年9月清(しん)(中国)浙江省生まれ。明治18年に来日,神戸を本拠にマッチ,綿花などをあつかった。37年日本に帰化する。神戸中華商業会議所会頭をつとめ,神戸中華同文学校などをつくった。大正15年11月25日死去。72歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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