翻訳|commerce
〈商〉と〈商業〉とは,日常用語としてのみならず,学問的用語としてもしばしば混用されている。けれども両者はいちおう区別されるべきである。漢字の〈商〉の第一義は,〈はかる〉であるが,日本語の〈あきない〉も,収穫の秋に飽き満ちた作物を互いに交換すること,すなわち交換を営むことを意味するとされている。いずれにしても,商の現象は,恵むこと,施すこと,盗むこと,奪うことではなく,己の物を他に与え,同時に他の物を己に受けて,自他ともに満足するところの取引行為を表している。商が取引行為にあるならば,商すなわち取引を業とするのが商業となる。しかし,商業の概念は固定的ではなく,歴史的に多様にとらえられてきている。それは取引が財の商品流通にかかわる現象であり,経済の発展に従って商品流通の経済組織や秩序が大きく変わってくるからである。したがって,商業を取引のために存在するところの企業と認識するこの説のほかに,交換説,再販売購入説,配給説などがある。交換説は,中世の都市経済における個別的な直接交換をとらえて商業とみる説であり,再販売購入説は,18世紀において商行為を専門の業務とする商人活動が盛んになるに至って,商人の再販売のための購入活動をもって商業とするものである。さらに,19世紀から20世紀にかけて,商人のみならず生産者,消費者,国もしくは地方公共団体によっても商行為が専門的に行われるに及んで,それらの組織体の商行為をも商業ととらえる配給説が唱えられた。
商業の本質規定にはこのように多様な説があるので,商業の一般的な規定が必要となる。この一般的規定に際して〈商品流通〉の概念が関連してくる。商品流通とは生産者から最終消費者への財の社会的移動をいう。社会的分業の発展は,自給自足経済の生産と消費を分離し,この分離した生産と消費を統合するために,〈流通〉といわれる第三の経済セクターが現れる。その実体は生産から消費への財の社会的移動であり,各単位経済の取引の連環により行われる。経済の発展は,生産と消費を連結する商品流通の内在的矛盾を拡大し,生産と消費の適合を困難とする。これを克服する手段として,生産者に対しては財の価値的側面を,消費者に対しては財の使用価値的側面を調整する商業者が登場し,両者の間にある人的・場所的・時間的・量的懸隔を調節していく。この調節は社会的流通時間・費用の節約という効果をもたらし,その限りにおいて商品流通はより効率的となる。したがって,商業とは,商品流通の全体の中にあって,商人(商業者)の媒介行動であり,その行動によって媒介されるところの商品流通の特定部分であるといえる。
しかし,資本主義経済が高度に発展した現代の段階で商業の本質規定をする場合,資本主義経済の発展段階に即した現実的な規定が必要となる。資本主義経済社会においては,流通問題は生産企業の生死にかかわる問題となる。経済の発展は,生産の拡大による市場の相対的狭隘(きようあい)化傾向を招き,その結果,生産企業は市場の確実性とその増大を求めて流通を支配することを志向する。生産規模の拡大および所得水準の上昇による消費の多様化・高級化は,流通の内在的矛盾をいっそう激化させる。このような状況のもとにおいて,生産企業は自己の商品の流通を独立の商人に依存せず,みずから市場に乗り出し,市場の不確実性除去に努める。すなわち自家販売組織の編成,および商人の独立性を形式的に残しながらその実質的従属化を達成していく商人系列化を図る。いわゆる〈配給〉の領域が形成される。これは,流通セクターにおける商人の存在および活動領域を収縮化させる結果となり,〈商業排除傾向〉となって現れてくる。この段階において,商品流通は〈商業〉と〈配給〉の二重の様式で行われることになり,その中にあって商業は〈配給〉の外側で配給に従属する部分として編成され位置づけられてくることになり,これが現代の商業の実態である。
生産と消費の間に存在する商業部門は,また経済の発展により機能分化を遂げていく。機能分化は,段階別分化,部門別分化,そして業態別分化の3方向にみられる。段階別分化は,まず商業が小売商業部門と卸売商業部門の2段階に分かれていき,さらに卸売商業部門は生産と消費の規模の格差を調整するために,収集・分散の機能の必要性から,個々の生産者から商品を集積する収集段階,それを個々の消費者に向かって分散させる分散段階,収集と分散を結合・調整する中継段階とに,それぞれ段階別に専門化していく。部門別分化は,商品を取り扱う技術的操作が商品種類別に異なるために生ずる。すなわち,消費者財と産業財,同じく消費者財であっても食料品と衣料品で,同じ食料品であっても青果物と菓子類とではそれぞれ商品の技術的操作がまったく異なるゆえに,専門的分化が進行していく。業態別分化は,経済の発展につれて多様の形態の商業店舗が現れてくる。消費者需要の異質性が増大するにつれて,また生産者の流通介入の度合が強まるにつれて,多様な店舗形態が現れてくる。百貨店,チェーン・ストア,スーパーマーケット,通信販売,自動販売,訪問販売,ディスカウント・ストアなどはその典型である。以上,これら機能分化による商業経営体が多様なパターンで空間的に配置されて,現代の複雑な商業構造を形づくっている。
商業構造とは,商品流通の専門的媒介者として,社会的分業により生産企業より自立した商業組織体の連環整序の態様のことをいう。そして,この態様は商業組織体の機能編成や空間的配置により,時間的に変動していく。一般に,ある国,ある社会における商業構造は,歴史的要因,生産要素的要因,生産構造的要因,消費構造的要因,政策的要因,国際的要因のそれぞれの複雑な相互関係により特定の姿が与えられてくる。現代の日本の商業構造を概観した場合,基本的には二つの大きな特質がみられる。第1は,複雑・多段階あるいは紆余曲折した商業構造である。それは卸売販売高の小売販売高に対する比率(卸/小売比率という)が著しく高いことによって示される。この高比率は中間流通段階が多いことを意味し,卸売商業内部における高い流通迂回現象を表すものである。この構造的特質を根本で規定しているものは,小規模零細生産者が多数存在することであり,それが膨大な数の中間卸売商業の存在を必要ならしめている。第2は,小規模零細の商業組織体が圧倒的に大きな比重を占めていることである。この構造的特質をもたらした根本的要因の一つは,第2次大戦前から近年に至るまでの一般大衆の低所得水準,これに規定された低消費水準と,多様化した国民の趣味・嗜好などである。これは究極的には消費者がごく少量ずつそのたびごとに商品の購買を余儀なくされるために,多数の小規模零細な店舗を存立させる原因となる。さらには,小売商業部門への参入が比較的容易なことである。さもなければ失業者にならざるをえない未熟練労働者の相当部分が,この分野で吸収されてきたために,小規模零細な小売店舗の増加となって現れてきている。
商業構造は商業組織体の連環整序の態様であるが,商業組織体の機能的な連鎖連環を〈商業機構〉という。生産から消費への商品流通のための流通機関の機能的な連環を流通機構というが,商業機構はその下位機構で,生産者と消費者が除かれた専門的媒介者としての商業組織体のみを構成素として構成される部分であり,流通機構の実体を成すものである。したがって,有効かつ能率的な商品流通のために商業機構の最適設計が問われ,このためのシステム化が課題となってくる。
→卸売 →小売 →流通
執筆者:伊藤 文雄
物品の交換を商業というならば,原始時代から商業はあった。ただし,これは共同体間の物資の交換である。藤原京,平城京,平安京の東市・西市における商業は,国家の管理下のものではあるが,これも商業の一形態といえよう。律令制下の社会は,租庸調の税制に基づく自給的な社会であるが,その補完機能として,ある程度の商業の発達を前提としていた。貢納物の過不足の調整や必要品の調達のためである。やがて平安中期になると商業は相当進展し,貢納物として京都などに運ばれるものも,京都市場に流通するために有利なものに変化してきた。それにともない各地の特産物生産の様相も変化した。京都と諸国を往来して,その物産を交換する商業が盛んとなり,京都を核とし,地方諸国を結ぶ商品流通が主要なルートとなった。これは律令制官衙工房の技術伝統による優秀な工人の存在と,貴族の需要に支えられて,京都,奈良の加工品産業が進展し,それによって,地方諸国は原料品の供給や半加工品産業に押しとどめられ,中央特権商人の優勢のもとに商業取引が行われる傾向が生まれたことを意味する。この傾向は中世を通じて存在し,石清水八幡宮神人の大山崎油座などの例にみるように,中央の特権的座商人が幕府の保護をうけて,地方諸国において営業独占権を行使するといった座的独占権をともない,それは時代が下るほど強化された。しかし,こうした中央座商人の専権は,戦国大名権力によって否定され,自国商業の育成が図られる。大名権力は御用商人を任命して,領国内の商業統制や,京都・畿内への輸出入をつかさどらせている。これは商業統制ではあるが,地域的な商業の発展の結果に負っている。
平安期から山村,漁村,農村の非自給品の交換をめぐって,庶民層の商業も成立していた。市における売買や,販夫や販女の行商が細々ながら行われていたが,これが鎌倉末期から南北朝期にかけて盛んとなった。畿内および中間地帯では,室町初期には村落から日帰りの行程,2~3里ごとに市が族生した。市は三斎市,六斎市などの定期市となり,農間副業による商工業従事者を中心として,村落のなかに商品経済を浸透させていった。また市の発展は貢納物の代銭納と因果関係をもっている。戦国期には問屋と小売の分離,製造と販売の分離が進行し,山城,大和では農間副業の生産者に対する都市問屋の問屋制前貸制度まで行われた。市も毎日開催されるものや,定住店舗の市町も成立し,中心集落に収斂する傾向をもった。流通圏の広がりは領国経済圏ともいうべきものを形成していたが,ときにはそれを超える広がりを示し,畿内では,京都,奈良,天王寺,堺を一丸とする首都市場圏ともいうべきものを形成していた。しかし,これらの圏内に流通する商品が,座特権による専売権に裏づけられていたことが,後世と大きく異なる特徴である。
→市 →座
執筆者:脇田 晴子
幕藩体制は徳川将軍を頂点として大名・武士階級が農工商を支配する体制であり,そこには武士と商工業者の城下町集住が随伴していた。農民はできるだけ自給的な生産と消費を行い,剰余生産物は米の形で年貢として領主へ納めた。城下町の商工業者は領主階級の需要に応ずるとともに,領内の農村に必需品を供給した。領国内で生産されない高級手工業製品とか原料品は,主として京都,大坂,江戸などの幕府直轄の大都市商人の手を経て購入した。城下町は日本各地と領内経済との結節点であった。商工業機能を城下町に集中することにより,領主は農村の商品経済化を抑止しようとした。そのため年貢を米という現物形態で納めさせることにし,農民が直接売買にかかわる必要度を低くしようとした。しかし年貢を米で収納することは,領主が食料以外の米を売却して,その代金で食料以外の必需品(武器,高級消費財など)を購入する制度であることを意味する。すなわち米納年貢制(石高制)は,一見実物経済のように見えるが,米を商品として売買する必要性をはらんだ制度であった。諸大名は自国で生産できない商品を他地域から購入する必要があり,さらに幕府の要求による軍役の負担があった。1635年(寛永12)から制度化された参勤交代は,領外での支出額をさらに増加させた。そのため諸大名は年貢米を領外で売りさばき,貨幣を得なければならなくなった。
当時の日本の経済先進地帯は京都・大坂を中心とした五畿内,瀬戸内海沿岸地方,名古屋を中心とした東海地方である。江戸を含む関東地方は後進地で,酒,しょうゆ,菜種油,高級な絹織物,綿織物,小間物などは上方方面から購入していた。諸地方の大名領もほぼ同様の事情であった。そして後進的な諸国からは食料品,原料品が先進地帯へ移出され,先進地帯からは手工業製品,加工品が後進諸国へ移出された。幕府は京・江・坂の三都以外に堺,長崎などの重要な港町を直轄地として,諸藩の経済が幕府直轄都市と交流しなければ成り立たないようくふうしていた。また幕藩制の経済は米の商品化を前提としていたから,幕府は米の輸送を容易にするため,角倉了以に命じて河川の開削をさせたり,河村瑞賢に東廻海運路,西廻海運路を整備させたりした。とくに西廻海運の隆盛により,その寄港地の松前,酒田,新潟,下関,兵庫などは近世後期には目ざましく台頭した。近世後半期に兵庫,松前,新潟が幕府直轄都市に編入されたのは,それら諸都市の重要性が増したからである。
以上のような事情のため,近世の商業は江戸,京都,大坂,堺,長崎などの直轄都市を中心に編成された。しかしそれぞれの都市の性格により,商業の性質も多様であった。江戸は膨大な消費人口をかかえていたから,諸国から商品を仕入れ,江戸市中および周辺部に供給する荷受問屋(売場問屋)および仕入問屋(専門的な商品を自己の計算で取引する),諸色問屋(米,油,綿を扱う)があった。京都は高級な手工業製品の生産地で,それらを仕入れて諸地方に売りさばく商人が活躍した。ことに高級絹織物の西陣織は京都商人が江戸へ出店を開いて売りさばいた。越後屋,大丸屋(現,大丸),白木屋は代表的な事例である。大坂は海運により商品を集散した。諸国からの荷物を口銭を得て取引する荷受問屋が活躍したが,しだいに特定商品を扱う専業問屋が増加した。堺はいわゆる鎖国により,また大坂の台頭によって発展が押さえられた。下関(赤間ヶ関)は西廻海運の興隆により飛躍的に発展したので,藩財政を潤した。
近世中期以降,各地の商品経済のいっそうの進展により先進地,後進地の関係および直轄都市問屋の機能に関して変化が起こった。国内の交流が盛んになって,かつては特定の地域が独占していた生産技術が伝播し,かつてのその商品の購入地が生産しはじめる現象が起こった。西陣の絹織物,摂・河・泉の綿作・綿織物,阿波の藍などはしだいにその独占性を失った。市場知識についても同様である。かつて三都商人が独占していた全国の需給事情の情報は他にも広まり,地方商人にも資力ができて三都商人の金融支配から自立するようになり,三都商人の地位は相対的に低下した。諸藩とくに西日本の諸藩は自国の生産物の藩専売制を実施し,幕府の経済政策と対立した。幕府は直轄都市の諸商人の株仲間に取引上の独占権を与えて全国の商品流通を統制していたが,このような事情の変化で実効が失われていった。天保改革期の株仲間解散令,諸藩に対する専売禁止令は,全国市場を再把握するための試みであった。しかしそれらの政策も諸藩の抵抗により実効はなく,とくに西南雄藩は専売制を強化しつつ外国貿易にも乗り出して,幕府の貿易政策とまっこうから対立し,開港から倒幕という結果をもたらした。明治に至って,三都をはじめとする直轄都市中心の商品流通の体制は再編成されなければならなくなった。
近代になって,江戸期と異なった商業事情は,次のとおりである。(1)幕府の倒壊により,幕府直轄都市は新政府の管轄となった。(2)幕末の開港は明治政府も継承し,中央政権として直轄港のみを開港し,諸藩の貿易を排除しようとした。(3)1868年(明治1)〈商法大意〉を発布して,自由取引の原則を宣言した。以上の諸変化にもかかわらず,江戸期以来の問屋,仲買,小売などの商人仲間は,自分たちの権益を守るためにアウトサイダーの同業仲間への加入を制限したり,部外者が同業を営むのを妨害したりした。もっとも部外者のなかには粗悪品を売ったり,商取引ルールを破ったりする者もいて,同業者や消費者に迷惑をかけたりする場合があったので,同業者仲間(組合)も取引を円滑にする効用があった。明治10年代には各地に商法(商業)会議所(商工会議所)設立運動が起こったが,これは排除的要素のない同業者組織を作ろうという動きのなかで生まれたものである。
明治以降横浜,兵庫などの開港場は隆盛におもむいたが,旧直轄都市や城下町は一時人口が減少し,商業も衰微した。既成の体制がくずれたので,次に近代工業が発展してきて,新しい体制が生まれるまで,幕藩体制の諸条件に支えられて発展してきた諸都市の商業は,再生の苦しみを味わったのである。とくに商業信用の発達していた大阪は,銀目停止,大名貸の切捨て,手形取引の衰退などで大打撃をうけた。京都の商業は遷都のため衰微し,江戸の商業も大名屋敷の廃止で大きく影響を受けた。
明治になっても商取引の中心的役割を担ったのは問屋,仲買であるが,維新以後は問屋,仲買の間の境界が乱れ,二つが合体していわゆる卸売商が形成された。江戸時代,商人だけが集合して卸売を行う市場として,青物,生魚,塩干魚,乾物,材木,薪炭,綿などの各市場があったが,これらの業種では伝統的な商慣習が永く持続した。大正期には政府は生鮮食料品流通の合理化のため各地に中央卸売市場を設立するよう努力し,日常消費物資を都市民に安価に提供するため公設市場を設けさせた。工業化の進行にともなって,労働者が都市に集中しはじめたので,それに対応するためであった。一方大都市では,消費者の多様な要求にこたえるため,消費物資一般を小売する大規模店舗として百貨店が登場しはじめる。大呉服商が呉服以外の洋服,小間物,はき物,洋傘,雑貨などを陳列して販売するようになった場合が多い。工業化の進行にともなって,従来日本で生産されていなかった商品が登場する。セッケン,洋菓子,調味料,洋酒,自動車などである。このような商品に対して既成の問屋の対応は鈍く,メーカーはその販路の開拓に苦労し,しだいに自己の直販店を設置する傾向がでてきた。この傾向は第2次大戦後いっそう明確となった。また都市の繁華街は,雑多な商店の立ち並ぶ商品街となって,買物を楽しもうとする新しい顧客層を引きつけるようになった。
→商業帳簿 →商人
執筆者:安岡 重明
商業は古く周代にはすでに盛んであったが,春秋戦国時代に列国間の交通が活発となり,諸侯が富裕になって奢侈の風がひろまるとともに一段と発達した。秦・漢時代に至って統一帝国が形成されると,数々の便宜を得てさらに発達した。その後,三国から五胡の動乱時代にかけて衰退し,南北朝時代にも振るわなかったが,隋・唐時代を経て宋代に至る時期に回復を遂げ,宋代において画期的な繁栄をみせるに至った。活況は以後衰えることなく明・清時代に受け継がれ,民国時代に至るまで発展の一途をたどったが,人民共和国成立以後は個人営業は認められなくなり,古くから存在した商業形態は一変し,国営のものだけになった。
商業は古くは限定された区域,つまり市(いち)で行われた。当初,市は取引者が日を定めて集まるだけであったが,やがて商店を設け,毎日売買が行われるようになった。このような状況はすでに秦・漢時代から認められ,隋・唐時代にはいっそう普及した。商業区域である市の営業時間には制限が加えられ,唐代では正午に鼓を打って市を開き,日没前に再び鼓を打って閉じる規定であった。漢都長安の東市,西市,呉市,燕市,唐都長安の東市,西市,洛陽の南市,北市などが,その代表例である。市の商店は同種同業のものが集まって,一つの町をつくるのが原則であった。この同業商店の町を,秦・漢時代には肆(し)あるいは列と呼び,隋・唐から宋代にかけては行と呼んだ。行には首長がいて行内商店の取締りに任じたが,彼らは行頭または行首と称せられた。このような市は,唐代では県治以上の都市に設けられ,それ以下の小都市や村落には草市が置かれるのが常態であったが,こうした市の制度は宋代に至って一変した。すなわち,変化の傾向は唐代後半に現れていたが,北宋の中期以後になると,商店の設置を市の内に限る制度は完全に崩壊し,営業時間の制限も破れて夜間の売買も自由となり,夜市と呼ばれるものが出現した。
以上のような常設の市のほかに定期市があり,市制崩壊とともに重要性を増してきた。定期市は都市のものと郷村(市鎮)のものとに大別される。都市の定期市には年市,旬市,日市の区別があり,宋都開封の相国寺の市は有名である。相国寺では3と8の日に市がたち(旬市),冠帽,首飾,弓剣,書画から飲食品,珍禽奇獣の類まで,各種の商品が売られたが,門や廊下にまで商品があふれ,多数の買物客で雑踏したといわれている。この種の市は明・清時代にかけて一段と盛んになり,各都市の城隍廟などが舞台となった。そこでは土地の商人と外来の客商との間で,あるいは商人と住民との間で,もっぱら日常生活の必需物資が売買された。一方,郷村の定期市も古くから存在し,草市と呼ばれたが,宋代以後とくに盛んになった。これは主として旬市であった。そこでは農民が自家生産の米穀蔬菜を持って集まり,商人が都市から持参した塩茶布帛や農器具と交換する風景がみられ,農村における経済活動のセンターであった。農村手工業の盛んな地方では,農民がその生産品を市で売り,原料を市で買うことがあり,とくに明・清時代の江南地方では,農村の定期市から発達した都市的集落である市(し)や鎮において,綿布と綿糸・綿花,あるいは生糸と綿糸・綿花の交換が行われ,商業資本の農民収奪の場となった。一般に各村落は赴くべき市が指定されており,少なくて10村前後,多いところでは20村くらいの農民が一つの市に集まることになっていた。村落と市との距離は3~5里が普通で,10~15里にわたることもあった。人口との関係でいえば,4000~5000人から8000~9000人に1市の割合となるのが一般的で,まれには3万~4万人に1市というような場合もあった。
同業商人の組合である行は,市制崩壊後に確立した。市の制度が存在した時代には,ある都市における特定の商業は,その行によって独占されるのが常態であったが,市制が崩壊するとともに行の制度も解体し,行の独占権も失われようとした。これに対抗し同業の商人らは団結して既得権益を守ろうとした結果,行は自然,より強固な組合へと変貌した。その時期は北宋中期と認められるが,同業組合としての行は,以後引き続いて明・清時代に至るまで存続した。だから,この時期にあっては,行とは同業組合を意味するとともに,特定の商業を指す用語でもあった。明末から清代にかけて,全国各地の都市には会館または公所と名づけられる建物が建てられたが,これには同郷の人々が協力して建てたものと,同業の商人が設けたものとがあった。後者は業種を同じくする商人の団体,つまり行が集会所として建てたもので,ヨーロッパ中世のギルド・ホールに類した建物であった。
商業の発達に対応して,商人の貨物を預かる倉庫もはやくから設けられた。倉庫は唐代以前には邸または店と呼ばれ,主として市の周囲に置かれたが,市制崩壊の後には随意の場所に設置された。宋代には邸店のほか,榻坊(とうぼう),堆垜場(たいたじよう)などと呼ばれ,明代には榻坊の語が用いられたが,清代になると行店,行桟,桟房,堆桟などと称せられた。倉庫は旅館によって兼営されることもあったが,その経営者は唐代では居停主人,または単に主人と呼ばれ,荷物を預かるにとどまらず,荷主の委託をうけて自己名義で売却し,ときには貨物を買い入れたりもした。このような委託売買は一般的には牙行の業務であったが,唐代では居停主人が行ったようである。清代には多くの場合,牙行が倉庫を兼営して,仲介のほか委託売買にも手を出すようになった。
商業は当然のこととして貨幣の使用をともなったが,古代において貨幣として選ばれたのは,貝,小刀,鏟(せん),織物などであった。そのうち,小刀と鏟は銅で小型の模造品が作られ,刀布と呼ばれた。秦の始皇帝が半両銭を鋳造して以来,歴代一貫して流通したのは銅銭である。このほか,金は戦国から秦・漢にかけて,また唐・宋から明初にかけて用いられ,銀も唐・宋から明・清時代に最も盛大に使用された。とくに明・清期に銀は銅銭を上回って,社会の各方面に流通した。いずれも地金のままで使用されていた。貨幣の代用として絹が使われたのは古代から宋代までであるが,宋代には紙幣が登場し,元・明時代に広く行われた。以上のように,各種の貨幣が流通し,また金銀の地金が通貨として用いられたため,通貨自体を営業対象とする商人も古くから存在し,両替なども行われた。このことは唐・宋以来の文献によって知られ,宋代には金銀商店の町,つまり銀行で銀の相場がたっており,明・清時代になると銭市・銀市あるいは銀銭市が主要都市に設けられ,銭舗,銭荘,銀号と呼ばれる業者が集まった。信用証券の類も,少なくとも唐代以後には出現し,約束手形や為替手形あるいは小切手的なものが広く行われた。宋代ではこれらの手形を交子あるいは会子と称したが,その起源は唐代にあったと思われる。清代になると,銀行的業務の発展によって信用証券もいっそう普及して,通常,票と呼ばれた。銭票と銀票とがあり,現金同様に扱われたが,とくに銀票は商取引に重用され,額面数千両に及ぶものもあった。また,貨幣を遠方に送る方法として手形を用いることも唐代以来行われ,飛銭と呼ばれたが,宋代には便銭,兌便などといわれた。明・清時代になると会票,のちに匯票(かいひよう)と称し,やがて業務が専門化・大規模化して票号が誕生すると,全国の主要都市に巨額の現金が託送できるようになった。いわゆる山西票号で,19世紀中ごろには中国全土の送金為替業務をほとんど独占するほどの勢力を誇った。
以上のように,中国の商業は古くから制度的に整備され,商人の活動も多方面に及んだが,宋代以後,とくに明・清時代になると,商人あるいは商業資本は流通過程にとどまらず,一部では生産過程にまで関与するに至った。この現象を中国の学界では〈資本主義の萌芽〉と認め,近代的生産関係の前身と評価することがある。なお,商業に課せられる税を商税といい,古くは関市の賦と称した。その起源は《周礼(しゆらい)》にさかのぼるが,広く行われたのは唐代以後であり,宋代には制度的にも確立して国家の一大財源となった。明代では鈔関を,清代にも同名の機関を設けて徴税にあたった。
→市 →貨幣 →商人
執筆者:寺田 隆信
ヨーロッパはギリシア,ローマ以来の商業的伝統を受け継いでいる。その伝統は,フェニキアを通じて古代オリエントの諸王国にまでさかのぼる。バビロニアやアッシリアにおいて高度に発達した商業は,強力な国家の支配する管理貿易や朝貢貿易の形をとっていたが,そのなかから芽生えた市場交易は東地中海において発達した。ギリシアのポリスは,ほとんどすべて海岸やそれに近接した地域に建設されたことからわかるように,遠隔地貿易と密接な関係があった。前7世紀ごろに金属貨幣が発達したのもこの地域であった。アレクサンドロス大王による東方征服とヘレニズム世界の成立によって,商業活動の範囲が急速に拡大した。インド洋から中近東を経て地中海に至る商業網が建設された。この遺産を受け継いだローマは,それを地中海の北岸のガリアやブリタニアにまで拡大した。後のヨーロッパは,このような大商業網の西の辺境に位置していたのである。
ローマ帝国末期におけるゲルマン民族の侵入に始まる政治の混乱,帝国の解体(476)は,気候の悪化,不作,疫病などと相まって,経済を衰微させ,その結果商業活動も停滞した。とくに西ヨーロッパの農業はそれまでも技術的に不安定な状態にあったので,経済的余力を失ってしまった。したがって,地中海を媒介とする東西交易は量的に減少してしまった。7,8世紀におけるイスラム勢力の地中海進出もこの傾向を促進した。ただし,イスラム側の勢力はもっぱら西地中海をおおっていたのであり,東地中海においてはビザンティン勢力が後まで重要な意義をもっていた。9世紀から11世紀までの地中海には,ビザンティン的な商業領域とイスラム的な商業領域とが並存し,古代以来の伝統をもったユダヤ人,シリア人,ギリシア人の商人たちがその間を結んでいた。したがって,西ヨーロッパと地中海の東岸および南岸の交易は中世初期の経済停滞の時代にも存続し,東から西へ香料や織物,パピルスが,西から東へ木材,金属,毛皮,奴隷などが送られるという古代以来の貿易の形態が続いていた。しかし,西ヨーロッパにおける経済的な立ち遅れが大きかったために,全体としての交易量は多くはなかったと思われる。
このような状況は11世紀に至って大きく変化した。7世紀ごろから11世紀までに北西ヨーロッパ,とくにライン,ロアール両河にはさまれた地域において農業生産力が発達し,やがて北西ヨーロッパ全体に伝播した。〈中世農業革命〉あるいは〈大開墾の時代〉と呼ばれるこの現象は10世紀末ぐらいから各地の人口を増大させ,商業活動に刺激を与えることになった。これを受けて地中海地域では,ベネチアやアマルフィのように従来ビザンティン帝国と密接な関係をもっていた都市の商人の活動がさらに活発になり,コンスタンティノープルおよびその周辺だけでなく,シリア,エジプトなどでも活動するようになった。ベネチア人がキプロス,クレタおよび黒海沿岸を除くすべての帝国領内で関税を免除され自由な商業活動を行うことを皇帝アレクシオス1世に許されたのは1082年であった。これはこのころシチリアに進出し,ビザンティン帝国に脅威を与えていたノルマン人に対抗して,ベネチア船隊が皇帝に援助を提供したためである。一方,イタリア西岸のジェノバ,ピサなどはコルシカ,サルデーニャなどのイスラム勢力と戦い,スペインや北アフリカまで商業圏を拡大した。ノルマンのシチリア征服(1072年パレルモ陥落)によって東,西地中海が再結合され,イタリア,カタルニャ,南フランスの商人が活発に往来するようになった。こうして南ヨーロッパの商人がいわゆるレバント貿易を掌握するようになったが,これも中近東からインド洋へ連なる大規模な交易網の一端にすぎなかったのである。
北西ヨーロッパでも商人の活動が活発になっていた。ライン,ロアール両河にはさまれた地域とイングランドとの商業関係はすでに7,8世紀において緊密であったことが指摘されている。カントビク,ドレスタットがその中心であり,毛織物,毛皮,奴隷,穀物,塩,南方のブドウ酒などが取引された。この交易は9,10世紀にノルマン人の侵攻により一時混乱したが,やがて前述した農業生産力の増大と相まって,北海・バルト海商業圏が形成され,イングランド,スカンジナビア,さらに東方のスラブ地域が密接に結びつけられるようになった。フランドルが地中海沿岸と並ぶ都市密集地帯となり,都市工業としての毛織物工業を発展させたのは11世紀のことである。ブールジュがその中心となった。
以上のような国際的商業ははるかに小規模な在地商業の発展によって支えられていた。高価な奢侈品交易の背後には,日常生活に必要な商品の交易網がひろがっていた。やがて12世紀にはシャンパーニュの市によって北と南の両商業地帯が結びつくようになる。各地の商人はキャラバンを組んでシャンパーニュを訪れ,香料,毛織物,皮革などを取引した。シャンパーニュは商人たちの決済の場となり,そこを支払地とする為替手形が成立した。フランドルの毛織物がイタリア商人の手によってイスラム圏に輸出されるようになったことで,東西間の貿易は質量ともにいちじるしく発展した。13世紀末から14世紀にかけてモンゴル帝国の勢力が黒海沿岸まで伸張し,地中海貿易はこれと結合した。ベネチアやジェノバの船がジブラルタル海峡を通ってフランドル,イングランドへ直接航海するようになり,バルト海から黒海まで長大な商業路が形成された。またイタリア商人をはじめとする国際的大商人はかつての遍歴商人から支店網をもつ定住商人になったため,シャンパーニュの市は衰えた。市による商業の中心は東方へ移動し,フランクフルト,ネルトリンゲン,リンツなどにおいて盛んとなった。一方,北ヨーロッパにおいては,13,14世紀にハンザ同盟に所属する都市の商人の活動が活発化し,バルト海からフランドル,イングランドへ穀物,木材,毛皮,蠟,ニシンなどを運び,逆に東方へ毛織物,塩,ブドウ酒を輸送した。リューベックがその中心であった。ドイツの東方植民の進展とともにバルト海沿岸からの穀物輸出が増大した。1348年の黒死病とそれに続く一連の疫病はヨーロッパの人口をいちじるしく減少させ,百年戦争と相まって商業活動に大きな打撃を与えたといわれているが,上述の貿易構造に根本的な変化をもたらしたわけではない。
これに比べてポルトガルのインド航路の開拓とスペインの新大陸発見は従来の貿易構造に対してはるかに大きな影響を与えた。大量のコショウがポルトガル船によってリスボンへ,さらにアントワープへと運ばれた。こうして16世紀前半にアントワープは西ヨーロッパの大市場に成長した。発展しつつあるイギリスの毛織物工業,南ドイツ産の銀,銅,それにコショウがその繁栄を支えた。しかし16世紀中葉にはベネチアを中心とする地中海の香料貿易が復活し,ポルトガルのコショウ独占は失敗した。1585年アントワープはスペイン軍の攻撃によって陥落し,アムステルダムがその地位を継承した。アムステルダムの商人はイベリア半島に進出して新大陸から流入する銀を掌握し,重要なトルコ市場をもつ地中海へも進出し,さらに東西インドの植民地へ勢力を拡大した。
このように16世紀末においてオランダは北西ヨーロッパ,地中海地域,東西インドを結ぶ中心に成長した。やがてイギリスがこれに続くことになる。こうしてヨーロッパ商業の中心は決定的に北西ヨーロッパに移動した。17世紀中にこのような大転換が生じたのである。
執筆者:清水 廣一郎
バスコ・ダ・ガマのインドへの航海とコロンブスの新世界の発見によって幕を開けた〈大航海時代〉には,ヨーロッパを中心とし,アジア,アフリカ,アメリカ(南北両大陸,カリブ海を含む)を結ぶグローバルな商業のネットワークが成立した(いわゆる商業革命)。アジアやアメリカの特産物=ステープル(メキシコやペルーの銀,ブラジル,カリブ海の砂糖,バージニアなどのタバコ,アジアの香料やコショウ,茶など)がヨーロッパにもたらされ,毛織物その他の雑多な工業製品がアメリカに送られ,アジアには主として銀が送られた。アメリカにおけるステープル生産のための労働力となる西アフリカからの奴隷供給も,世界商業の重要な一部門として成立した。16世紀には,人口が激しく増加し,工業生産の高まった西欧と,いわゆる〈再版農奴制〉によって穀物生産を拡大した東欧(バルト海沿岸地方)との間にも,盛んな交易が展開された。16世紀のヨーロッパでは,領有した植民地の関係で,アジア貿易や奴隷貿易は主としてポルトガルが,中南米との貿易はスペインがそれぞれ握り,リスボンとセビリャが世界商業の中心となった。さらに,こうした大陸間貿易とヨーロッパ内交易の結節点として,スペイン領ネーデルラントのアントワープが世界経済の核をなしていた。他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。
1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。しかし,17世紀後半になると世界商業の覇権は,3度にわたるイギリス・オランダ戦争を通じてイギリスの手に移る。1600年に設立されたイギリス東インド会社が,57年に近代的に改組・強化されたこと,カリブ海や北アメリカ大陸におけるステープル生産が成長し,商品作物を大量に供給したことなどが,イギリスの覇権獲得に有利に作用した。このころになると,イギリスはまた,王立アフリカ会社などを組織して,アフリカ人奴隷の貿易にも乗り出す。イギリスと相前後して,フランスも世界商業に参入する。こうして,18世紀にはイギリス,フランス両国の熾烈な覇権争いが断続的な戦争を引き起こしたが,結局七年戦争に敗れて,フランスの勢力は後退を余儀なくされた。イギリスやフランスによる商業覇権をめぐる争いの手段として採用された経済・社会政策--航海法や〈コルベール体制〉など--は,ひろく重商主義と呼ばれている。重商主義とは,いわゆる資本の原始的蓄積のための政策と定義することも可能で,封建制から資本制への〈移行期〉がしばしば〈重商主義時代〉と呼ばれるのも,この時代における商業資本の活動の優越を考慮してのことである。
18世紀末以降は,産業革命の展開によって,イギリスを核とする世界商業の構造はいっそう強化される。他国に比べて圧倒的な生産力を誇るようになったイギリスは,自国にとって有利な自由貿易の原則を世界中に唱道した。〈世界の工場〉となったイギリスは,初めは綿布,ついで鉄道など重工業製品を世界中に大量に輸出する一方,為替による多角決済機構を確立して,金融面からもその世界商業支配を揺るぎないものにしたのである。しかし,19世紀後半,いわゆる帝国主義段階に入ると,こうしたイギリスの優位は崩れ,再び保護主義的な関税政策などがとられるようになる。
産業革命で大量生産方式が採用され,交通・通信手段も発達すると,生産地と最終消費市場が地理的にも遠くなり,それだけ複雑な流通機構をたどるようにもなるが,一方では,国内商業でも貿易でも,生産者(産業資本)による流通過程の支配・系列化が進行した。
→商人
執筆者:川北 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
商品の売買に関する経済活動の総称。商業の意義と実態は、経済の発展につれてかなり変化してきているが、商業には基本的に広狭二義がある。広義の商業は、生産者から消費者への財貨の社会的流通に関する諸活動、生産および消費に関する情報を提供してそれらを指導する活動、価格を形成しあるいは調整する活動、流通活動を効率化するための促進的補助活動などをすべて包含し、生産・流通・消費にまたがる流通経済現象を経済循環の視点からとらえた全領域をもって商業とする。これに対して狭義の商業は、商品流通のなかの財貨売買のみをもって商業とし、かつ個々の主体(商人)の営利目的追求として営まれる個別経済現象の視点から、それを取り上げる。日常用語としての商業は狭義に用いられることが多いが、商業学、経済学、マーケティング論などの学問上では、むしろ広義の商業が一般的である。また、流通のシステム化、経営の多角化などにより、狭義の商業を純粋に取り出すことは、実態的にも困難になりつつある。
[森本三男]
狭義の商業は商人による財貨(商品)売買活動のみをいうから、この意味の商業は、農業、林業、漁業、鉱業、工業などと並立する。また、財貨売買活動に深く関係し、それを促進助成している金融業、運送業、保険業、倉庫業などは、狭義の商業には含まれない。さらに、財貨売買活動であっても、商人によらないものは、狭義の商業には含まれない。たとえば、消費者が自己の消費する消費財を廉価で購入するために自ら組織した消費生活協同組合(生協)、農業生産者が自己の使用する農機具、肥料、日用雑貨などを共同で購入したり、農産物を出荷するために組織した農業協同組合(農協)、製造会社の購買部門や販売部門などは、財貨売買活動を営んでいるにもかかわらず、通常、狭義の商業に含めない。
これに対して、広義の商業では、財貨の社会的流通活動の全体をもって商業とするから、それを営む主体を商人に限定したり、活動内容を財貨売買だけに限定することはしない。商人による財貨売買業はもとより、消費生活協同組合・農業協同組合・漁業協同組合の行う流通活動、製造会社の購買部門や販売部門の行う仕入れ・販売活動、財貨の社会的流通を円滑にするためのサービスを提供する金融業、保険業、運送業、倉庫業、広告宣伝業、情報処理業、貿易業なども、当然に商業に含まれることになる。また、社会的流通の重要な基盤となる取引所、中央卸売市場(おろしうりしじょう)、為替(かわせ)市場、金融市場なども、商業のなかに取り入れて考えなければならなくなる。このようにみるならば、広義の商業の範囲と内容は、単に広範・多岐であるばかりでなく、経済の発展と国際化・情報化とともにいっそう拡大・複雑化していくことが理解できる。このことを反面からみれば、多彩な商業を的確に掌握するための体系が必要になることを物語っている。このような体系の基本枠は、広義の商業を、商品の流通機能に直接関与するものと、それを促進援助するものとに大きく二分する方法である。前者を純粋商業、直接商業、基幹商業、固有商業などと、後者を補助商業、間接商業、商業補助業などとよぶ。狭義の商業は、前者のうち商人による個別経済部分を主としてとらえていることになる。ここでは広義の商業について述べる。
[森本三男]
国民経済の視点からみると、商業は財貨流通について、物的流通、生産と消費の指導、価格の形成・調整の3機能を果たしている。これらは、生産と消費の媒介的調整に集約されるが、このような基本機能をこれとは別の視点で再整理すると、生産と消費の人的調整、場所的調整、時間的調整、数量的調整、および品質的調整の5機能になる。
(1)人的調整機能とは、社会的分業の進展によって相互にますます未知の関係が深まっていく生産者と消費者とを、媒介して連結する作用である。商業がなければ、生産者は自己の生産物を希求している消費者を、消費者は自己の必要とする財貨の生産者を、それぞれ自ら探さなければならないが、生産・消費ともに多様化した今日では、それは不可能になっている。
(2)場所的調整機能とは、生産地と消費地が空間的に遠隔である場合、生産地から消費地へ財貨を運搬して消費者に提供する機能である。農・林・漁業のような第一次産業は、自然的条件によって生産地が規定されるから、それらの生産物にとってこの機能は本来的に必要である。工業についても生産本位の立地の比重は圧倒的であり、消費地との距離は遠くなる傾向にあるから、やはり事情は同じである。国際貿易は、この機能の国境を越えた現れである。
(3)時間的調整機能とは、農産物のように季節的に生産されて一年中消費されるものや、その反対に一年中生産されて季節的に集中消費される燃料や化学肥料のような財貨について、生産と消費の時間的な隔たりを、貯蔵(保管)によって円滑に媒介し、生産と消費の利害を両立させる機能である。
(4)数量的調整機能とは、大量生産された財貨を少量の小口消費単位に逐次分割したり、農産物のように分散して少量ずつ生産された財貨を逐次集荷によって大口の取引単位にまとめあげたりする機能である。
(5)品質調整機能とは、生産者の供給する財貨と消費者の希求する財貨の内容について、品種や品質の多様性を一定の基準によって整理し、選別し、等級をつけるなどして相互に調整する機能をいう。このため、財貨の形状・寸法・外観・成分・作用などによって格付け等級化を行い、需給関係を円滑化する。また商品の種類によっては、選別や混合が行われる。
以上のように、商業の機能を五つの機能でとらえる立場は、どちらかといえば伝統的である。これに対して、比較的新しい立場には、商業の本質的機能をマーケティングに求め、その内容を交換機能、物的供給機能および補助的促進機能に三分する説もある。この説によれば、第一の交換機能とは、需要創造である販売と供給創造としての買い集めのための購買からなる。販売の目的は、売り手がもっている財貨を有利な価格で販売しうるような市場ないし需要を発見して、そこに財貨を供給することであり、購買の目的は、消費者の求める種類・品質・数量の条件を満たす財貨を妥当な価格で取得し、適当な時期と場所で消費者に供給することである。第二の物的供給機能とは、生産者から消費者に実体としての財貨を移転することであり、運送と保管とがその主内容になる。運送は生産地から消費地まで生産物を物理的・空間的に移動することであり、保管とは生産の時期から消費の時期まで生産物を時間的に保持することをいう。運送と保管により生産物の価値が高まるところに、商業の存在理由がある。
以上の二つの機能は、伝統的理解の五つの機能と内容的に等しい。第三の補助的促進機能は、マーケティングに不可欠な金融、危険負担および標準化を内容としている。ここでいう金融とは、生産者に資金を融通したり代金を前払いし、あるいは消費者に掛売り、分割払いなどの形で信用を供与することによって、生産と消費を円滑に連結しそれらを助成することをいう。危険負担とは、市価の変動、流行遅れ、火災、沈没、変質、目減りなど流通過程で生じる損失を負担し、あるいはそれらの危険を拡散させることであり、保険がその具体的な方法となる。標準化とは、前述の品質調整(機能)に等しく、多様な品種や品質を一定の基準によって整理し、選別し、等級をつけることなどをいう。
[森本三男]
経済の進歩に伴う商業活動の広範囲化により、商業機能の専門分化が生じる。その基本は、直接商業における小売商と卸売商の分化である。
小売商は、流通経路の末端に位置し、最終消費者に直接に対面して財貨の販売を行う。その機能には、(1)消費者の需要する財貨を消費者の求める時と場所で供給する、(2)大口の財貨を小口の消費単位に分割する、(3)掛売り・配達・アフターサービスなど、消費者に対し種々のサービスを提供する、(4)広告・宣伝などにより財貨に関する情報を消費者に提供し、他方、消費者のニーズに関する情報を生産者にフィードバックする、などがある。小売商の形態別種類としては、よろず屋、単位商店、専門店、百貨店、チェーン・ストア(連鎖店)、通信販売、無店舗販売、消費組合、日用品小売市場、スーパーマーケット、コンビニエンス・ストア、露天商、行商(訪問販売)などがある。
よろず屋は、多種類の日用財貨を少量ずつ無体系に販売する小売商である。単位商店はまた独立小売店ともよばれ、特定の種類の財貨を販売するもっとも普通の小売商である。肉屋、八百屋(やおや)、薬屋などがこれである。単位商店のうち、高級品や流行品に焦点をあてた財貨を扱うものを、とくに専門店とよんで区別する。毛皮店、宝飾店などはこの例である。
百貨店は、多種類かつ大量の財貨を体系的に部門化して陳列し、広壮な建物、近代的な販売方法(陳列販売、正札販売、不満足品の引き取りまたは取り替え、無料配達、品質保証、案内所設置など)、および付帯施設(劇場、展示会場、娯楽設備、食堂など)を完備して、大量販売を行う小売商である。
チェーン・ストアは、多数の小売店舗が統一的戦略のもとに管理され、仕入れと保管を集中する効果および分散販売する効果を統合しようとする意図をもった小売商である。全店舗が一企業の所有下にあるものをレギュラー・チェーン(正規連鎖店)、多数の独立店舗の連合体であるものをボランタリー・チェーン(任意連鎖店)という。また、特定の商品についてフランチャイズ(特権)をもつ親企業(フランチャイザー)が、チェーンに参加する独立店(フランチャイジー)に対し地域的独占販売権を与え、各種の指導・サービスを提供し、その反対給付として特約料を徴収するようなものをフランチャイズ・チェーン(契約チェーン)という。
通信販売は、新聞、雑誌、ラジオ、テレビジョン、カタログ、ダイレクト・メールなどで広告し、遠隔地に散在する消費者から電話、郵便、電子メール、ファクシミリなどで注文を受け、財貨を配送する小売り方法である。無店舗販売は、店舗を特定して保有せず、一定期間だけ集会場・ホテルなどを借用して客を集め、商品を販売する方法である。通信販売をこれに含めることもある。
消費組合は、消費者が自己の必要とする日用生活品を協同で安価に入手するために組織する非営利・互助的な小売商である。日本では、消費生活協同組合(生協)の形態をとる。日用品小売市場は、公設の建物の中に多数の小売店舗を収容し、公的な管理・監督の下に日用品を主体にした商品の販売を行わせるものである。
スーパーマーケットは、食料品や日用品を中心にしたセルフサービス、現金販売、廉価販売を原則とする大規模小売店である。衣料品の比重の高いものをとくにスーパー・ストアということもある。大手スーパーマーケットのことを量販店とよぶこともある。スーパーマーケット形式ではあるが、大規模店では提供できない便利さ(コンビニエンス)を提供する小型のものをコンビニエンス・ストアという。ミニ・スーパーと俗称されることもある。その便利さとは、立地(交通至便)、時間(年中無休・24時間営業)、品ぞろえ(必要度の高い日用品に集中)などをいう。
露天商は、道端や広場などに商品を並べて販売する形式であり、行商(訪問販売)は、商人(販売員)が家庭や職場を巡回して商品を勧誘し販売する形式をいう。
小売商の動向は、量販店の隆盛とそれに連動して考えられる質販店の必要に集約される。スーパーマーケットや家庭電器専門店のような量販店は、大量廉価販売で生活と文化を改変し、商業に革新をもたらしたが、同時に多くの問題をも生み出した。生活と文化の面では、量的向上に寄与したが、その一段落とともにやがて消費者の質的志向を生み出し、量販店自体の方向転換が求められるようになった。それは、商品の品質重視、他店との差別化のための個性強調である。他方、百貨店を圧倒したスーパーマーケットが、百貨店に近い特性を追うような現象がみられるようになった。このような傾向を表現して、質販店という用語も現れてきた。もう一つの問題は、量販店などの新種小売商の台頭による既成秩序の混乱であり、これに対応して「大規模小売店舗立地法」(略称大店立地法、平成10年法律第91号)、「特定商取引に関する法律」(略称特定商取引法、昭和51年法律第57号)などが整備されている。
卸売商は、小売商以外の直接商業をいう。卸売商もまた経済の発達とともに分化するが、その内容は流通する商品の種類に左右され、一様ではない。一般に用いられる卸売商の分類としては、収集卸売商、中継(なかつぎ)卸売商、分散卸売商に三分する機能的分類法がある。
収集卸売商とは、産地問屋・産地仲買人のように、生産地にあって財貨の収集を行うものをいう。中継卸売商とは、都市問屋のように、集散地にあって財貨の収集と分散を媒介的に結合するものをいう。分散卸売商とは、消費地にあって小売商に対し財貨を供給するものをいう。この分類の場合、最後の分散卸売商のみが卸売商と解されることが多い。
卸売商の第二の分類方法は、流通経路上の地位に応じて、販売代理店としての卸売商、中央卸売市場の卸売商、仲(なか)卸売商、輸出入商としての卸売商に四分するものである。販売代理店としての卸売商は、元(もと)卸売商ともよばれ、製造業者の生産物を一手に引き受けて、主として仲卸売商に販売する。中央卸売市場の仲買人は大口の取引をする卸売商とみなすことができるが、その中心機能は公正な価格の形成である。仲卸売商は、元卸売商から仕入れて小売商に販売するもので、一般にいう卸売商はこれである。輸出入商(貿易商)は、大口の財貨を国内で仕入れて外国へ販売し、あるいは外国で仕入れて国内で販売し、場合によっては第三国間で仕入れ販売を行う一種の卸売商である。
[森本三男]
間接商業は、商品売買活動を円滑に行わせるための機関商業と、財貨売買業および機関商業をさらに支援する商業助成機関とからなっている。
機関商業には、金融業、証券業、保険業、運送業、倉庫業、通信業、情報処理業がある。金融業は証券業とともに財貨流通に必要な資金の供給と取引関係の為替(かわせ)・決済に寄与する。なお機関商業としての証券業には証券取引所も含まれる。保険業は、財貨流通に伴う各種の経済的危険をカバーする。運送業は倉庫業とともに、財貨の物的流通を担当し、商業の場所的調整機能および時間的調整機能を現実に遂行する。なお、機関商業としての倉庫業は、自家用倉庫を除く営業倉庫のみをいう。通信業は、財貨流通に必要な情報の送達・伝播(でんぱ)を担当し、商業機能を促進する。これには、電信・電話業はもとより、郵便・放送業も含まれる。1990年代の通信技術の発達と通信の自由化により、インターネットによって単に情報を送達するのみでなく、情報内容をニーズにこたえて加工して供給する付加価値情報ネットワークが急速に普及してきた。これらを情報処理業とよぶことがあるが、その内容はまだ流動的・弾力的である。
[森本三男]
広義の商業全体の改善・発達を図るための機関である。業者団体、商工会議所、商工会、商業興信所、商工指導所、商品陳列館、物産館、見本市、商品検査所、日本貿易振興機構(ジェトロ)などがこれである。これらのうち、商工会議所、商工会、商工指導所、商品検査所の一部、ジェトロは公的な機関である。たとえば商工会議所は、原則として市を地区とする商工業者の非営利法人組織で、商品や事業内容の証明・鑑定・検査、輸出品の原産地証明、見本市の開催・斡旋(あっせん)、商事取引の仲介・斡旋、取引紛争の斡旋・調停・仲裁、相談・指導など、広範に商業活動を支援する。
[森本三男]
商業の原始形態は交換であるが、原始時代、古代のそれは、かならずしも有償・等価とは限らず、互恵(贈与)、再配分(獲得物分配)、市場流通の三者があったが、第三のものが商業の直接源流になる。経済的余剰と希少性とが生じると、部族内から部族間へ交換が広まる。西暦紀元前、すでにフェニキア人、アラビア人、シリア人、ユダヤ人などは、ぶどう酒、オリーブ油、織物、貴金属などの通商を行っていた。その後、ギリシア・ローマ時代には、地中海沿岸で活発な貿易通商が展開され、各地に市(いち)が開かれるようになる。
中世のヨーロッパ経済は、荘園(しょうえん)を軸にして動いた。荘園は、王・貴族・僧院の自給自足経済体であるが、荘園間の交換として商業が営まれた。商人はバイキングなど外国人が主であったが、王の統制下にメッセ(大市)などの市場を開設し、独占的営業の特権を与えられる代償として税を納めた。当時の商業は主として、商人が運送業者とくに回漕(かいそう)業者や資本主と協力する形がとられ、基本的には小売商であった。
中世末期、イタリアは東洋貿易の中心として栄え、フッガー家のような富豪を多数生み出した。彼らの活躍は、従来の生業・家業的生活原理にたつ商業から、営利追求を中心にした収益性原理にたつ商業への脱皮を促す。これとともに、社会への寄生的存在とみなされてきた商業が、生産的機能をもつ産業として正当に評価されるようになっていった。このような思想が国家の政策に結び付いたとき、重商主義(マーカンティリズム)となって現れる。それは、輸出を奨励して輸入を抑制し、正貨を蓄積することが国益になるとの商業重視主義である。
重商主義の展開のためには、フランスのコルベールに典型的にみられるように、外貨獲得のため貿易収支を改善することを意図した国内産業の振興が必要であり、その一環として商業もまた大きく変容する。その最大のものは、小売業と卸売業の分化である。それまで主として運送業者が担当してきた小売業は、財貨の集積・分散や流通の危険負担をもっぱら担当する卸売業の出現により、小売業に純化する。卸売業もまた、問屋や仲立人などに専門化していく。このような商業の分化による発達を促した大きな要因は、従来の組合組織にかわる会社、とくに株式会社の普及であった。
産業革命は、経済の主導権を商業から工業に移行させたが、工業生産力の飛躍的増大により、商業自体も発展することになった。商業は一方で小売商の多様化など水平的に特化を進め、他方で卸売商の多層化など垂直的に分化を深めていった。小売業についてみると、よろず屋から単位商店への脱皮が進み、一部には専門店も現れてくる。とくに重要なことは、19世紀中葉の欧米における百貨店の出現であり、これにより近代的商業が幕開きを迎えることになる。
産業革命はまた多数の貧困労働者を生み出すが、彼らの生活自衛組織として消費組合が現れる。その最初はイギリスのロッチデールの消費組合(1844)である。さらに20世紀に近づくと、通信販売店が登場する。通信販売店として出発し、その後チェーン店方式の百貨店として巨大小売商となったシアーズ・ローバックは有名である。チェーン店そのものが広く普及するのは20世紀10年代以降である。
第二次世界大戦後、流通革新が幅広く進行し、スーパーマーケットを中心にした量販店が商業の代表的形態になったが、豊かさに伴う人間欲求の多様化は、多種類の商業形態の存在の肯定と質中心への移行を求めている。
20世紀末の情報技術(IT)の急速な発展は、インターネット上の「市場」の開設のような、旧来の概念では説明・整理のできない商業を生み出した。
[森本三男]
商の大和(やまと)ことばは「あきない」であり、秋の収穫物の交換を語源とする。社会的交換は、最初の主要産業であった農業の進歩により余剰生産物が生じたときに始まったと考えられる。その時代は明確ではないが、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』(3世紀後半)には市(いち)の存在が記され、『日本書紀』(7~8世紀)にも市が大和などで開かれていたことが示されている。これらの事実から商行為が市の形態をとって始まったことは確かであり、その理由として、交換を公衆の集まるなかで有利に行うためと考えられる。大化改新(7世紀)により、市は制度化され、藤原京、平城京、平安京に東西の市が、地方国府にもそれぞれの市が設けられた。これらの市は、主として政府が、租(農作物で納める税)、庸(同じく布)、調(同じく地方特産物)で収納した物品をさばき、あるいは貴族が給与の余剰を処理するためのものであって、商業が本格的に成立したとはいいがたい。鋳造貨幣の最初は708年(和銅1)の和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)であるとされているが、流通は十分でなかった。そのことが商業の本格的な成立を遅らせた一因ともいえるが、都から地方へ商品を流通させる行商人が現れたことは注目される。平安時代に入ると、荘園制が発達し、地方の開発が進んで、市は広く各地に普及するようになった。
[森本三男]
鎌倉時代から戦国時代に至る中世に、商業は本格的に業として成立する。その基盤は、市と座である。まず市は日帰り行程の地域圏に族生するとともに、定期市になり、かつ開催日数が増えて常設市に近づく。これに関連して定住店舗が現れ始める。市を足場に、農閑副業の商人が生まれ、商品経済を地方に浸透させていった。さらにこのような商業を発展させるのが、座とよばれる特権的同業者集団である。座と商業との関係は、公家(くげ)や社寺の座が余剰の処理について特権を与えられたことに始まり、ますます盛んになった行商人がこれらの座に加わり、商人自らが独自の座を形成する形に発展した。座の特権には、営業課税免除、特定物資の専売権、一定地域の行商権などがあった。戦国時代に近づくと、公家・社寺に隷属する座から商人のみで結成する座への脱皮が生じ、さらに各種の業種別、職種別の座も現れてくる。このような動きにつれて、生産と流通の分離、問屋(といや)と小売りの分離、生産者に対する問屋制前貸制度など、商業の機能分化が進行した。商圏の拡大が顕著になり、市や定住店舗は都市や大集落に集中し、とくに近畿では、京都、奈良、天王寺(てんのうじ)、堺(さかい)を拠点とする一種の広域市場が形成されるようになった。座はその特権とさまざまな形での相互作用によって、広域市場を動かしていた。やがて、座による市場支配は戦国大名による領国内の産業振興と利害が衝突するようになり、織田信長と豊臣秀吉(とよとみひでよし)による楽市・楽座令により解体させられるに至る。
[森本三男]
信長と秀吉による兵農商業分離政策と江戸幕府による幕藩体制は、城下町に都市商業を繁栄させることになった。これに幕府による江戸・大坂・京都の三大都市と各城下町とを結ぶ全国的商業網の展開が加わって、各藩の都市商業が全国的流通の結節点として機能するようになった。具体的には、諸藩の蔵(くら)屋敷の年貢米の集中と換金、生活必需品の集散、高級工業製品や原材料の調達と供給などであり、問屋と小売りに分化した商人が、これらの機能を担っていた。彼らの活躍の場である市場(いちば)は、小売市場から卸売市場へと広がり、さらに現物市場のみでなく、大坂の米市場にみられるように、銘柄(めいがら)による先物(さきもの)投機市場へと発展する。このような市場の広がりは、問屋による流通支配を生み出し、商工業者による株仲間の中心的役割を問屋が担うことになった。しかし、鎖国による工業の遅れのため、問屋が産業資本に転化することはなく、せいぜい問屋制家内工業の段階にとどまるだけであった。
[森本三男]
明治維新による幕藩体制の崩壊は、蔵屋敷、株仲間など近世商業を支える柱を取り払い、一時的に商業は衰退する。しかし明治中期以後、工業化が進行するにつれ、工業生産に原材料を供給し、その製品を内外に大量に流通させるための近代的商業が必要になり、政府もまたこのための施策を講じたため、商業は再生する。近代的である理由として、商業の担い手が会社企業によっていること、商業機能の内容が商品流通を中心に、各種補助商業(金融、保険、倉庫、交通、通信など)と有機的に結合したものになったこと、外国貿易を含む市場の飛躍的拡大が生じたことがあげられる。また、商業を円滑に機能させるための法律が整備され、これに基づいて取引所や中央卸売市場が整備され、従来は小規模生業が主体であった小売業にも百貨店のような大規模店が出現するようになった。日本では欧米に比して約半世紀遅れて現れた、三越(みつこし)(1904)、高島屋(1907)、松坂屋(1908)、松屋(1908)、大丸(1908)など旧呉服店系の洋風百貨店である。こうして、日本にも近代的商業が定着する。
[森本三男]
『岡本喜裕著『現代商業学』増訂第2版(2003・白桃書房)』▽『久保村隆祐編『商学通論』7訂版(2009・同文舘出版)』▽『藤田貞一郎・宮本又郎・長谷川彰著『日本商業史』(有斐閣新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…産業資本,銀行資本とともに資本主義経済を支える最も重要な資本の運動形式の一つである。産業資本,銀行資本がそれぞれ生産,金融領域で活動するのに対して,商業資本は商品流通の領域(市場)で機能する。商業資本の活動は商品の購入と販売を2契機とし,そこで生じる売買差額が商業利潤の基礎になる。…
※「商業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新