日本大百科全書(ニッポニカ) 「哥舒翰」の意味・わかりやすい解説
哥舒翰
かじょかん
(?―756)
中国、唐の武将。祖先はトゥルギシュ哥舒部の首長(しゅちょう)。父は唐の安西副都護に任ぜられていた。母は于闐(うてん)の王族尉遅(うっち)氏の出身。翰は河西節度使王忠嗣(おうちゅうし)に仕え大斗軍副使となり、漢籍に通じ、施しを好んで人心を得た。隴西(ろうせい)節度副使都知関西兵馬使河源軍使として吐蕃(とばん)の侵攻を破り、玄宗の信任を得、隴右節度支度(ろうゆうせつどしたく)営田副大使知節度事に任じ、753年同節度使となって吐蕃を攻破、西平郡王に封ぜられた。
安禄山(あんろくざん)と仲が悪く、禄山の政敵であった宰相楊国忠(ようこくちゅう)は彼を利用しようと太子太保に任じたが、酒色におぼれ廃疾となった。754年、安禄山が反し、先鋒(せんぽう)兵馬元帥を命ぜられ、隴右、河朔(かさく)の兵20万をもって潼関(どうかん)を守ったが、病に加えて楊国忠とも不和となり、大敗して安軍に降伏したが殺された。
[菊池英夫]