中国、唐の武将。安史の乱の首謀者。出自は伝説的で、母は突厥(とっけつ)(トルコ系)貴族阿史徳(あしとく)氏の巫女(みこ)、父は一説に胡(こ)人康(こう)氏(イラン系ソグド人)で早く死別、母が幼年の彼を連れてソグド系武将安延偃(あんえんえん)に再嫁したので義父の姓を名のったとされるが、安氏を実父とする説が有力である。唐人からは雑胡(ざっこ)と称せられた。幼名軋犖山(あつらくさん)(トルコ語の軍神の意と記されるが疑わしい)、のち禄山としたが、いずれもソグド語の光(ロクサン)の音訳とされる。
716年ごろ一族とともに唐側に亡命、営州柳城(遼寧(りょうねい/リヤオニン)省朝陽(ちょうよう/チャオヤン)県)に住んだ。営州は唐の東北前進基地で、諸民族の集まるところであった。禄山は6種の言語を操り、互市牙郎(ごしがろう)(貿易仲買人)を務め、やがて幽州節度使張守珪(ちょうしゅけい)の部下となって対契丹(きったん)戦に活躍、奚(けい)、契丹、室韋(しつい)、靺鞨(まっかつ)など東北諸族の鎮撫(ちんぶ)に手腕を発揮する一方、中央派遣の使臣に贈賄して玄宗の信任を得た。742年平盧(へいろ)節度使に抜擢(ばってき)され、744年范陽(はんよう)(幽州。現在の北京(ペキン))、751年河東(山西(さんせい/シャンシー)省太原(たいげん/タイユワン))の両節度使を兼任するに至り、唐の辺防軍全体の3分の1近い大兵力を握った。禄山は宰相李林甫(りりんぽ)をはじめ皇帝側近、とくに後宮の楊貴妃(ようきひ)に取り入って養子にしてもらい、宮廷に食い込んだ。しかし貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゅう)が李林甫を追い落として宰相となるや、禄山の勢力を恐れ、謀反の志ありとして帝との離間を謀り、玄宗も疑念を抱くに及んで、禄山は君側の姦(かん)、楊国忠を討つと称して15万の兵を動員した。755年11月挙兵、12月洛陽(らくよう)を落とし、翌年元旦大燕(だいえん)皇帝と称し、聖武の年号をたて、6月には長安を攻め落とし、一時は華北の主要部を制圧した。
しかしこのころから眼疾で視力が衰え、疽(そ)(悪性腫(はれ)物)を病んで狂躁(きょうそう)となり、愛妾(あいしょう)の子慶恩(けいおん)を偏愛したので、不安を感じた太子慶緒(けいしょ)(次子)によって暗殺された。河北地域では数十年後まで人気は衰えず、反乱を引き継いだ史思明(ししめい)とともに、二聖とあがめられるほどであったという。
[菊池英夫]
中国,唐代の節度使。営州柳城(遼寧省朝陽県)の人。ソグド人の父と突厥(とつくつ)人の母をもつ雑胡で,安はソグドの中国姓,禄山は光を意味するソグド語roxšanの音訳と考えられる。6ヵ国語に通じ,互市牙郎(交易の仲介人)から幽州節度使張守珪の部下となり,並外れた才覚と遊泳術により玄宗の信任を得て,751年(天宝10)には平盧,范陽,河東つまり遼寧から河北,山西にまたがる3節度使を兼ね,唐全体の3分の1にあたる兵力を擁するまでになった。楊貴妃の養子におさまり実力者李林甫の追いおとしに成功したが,李林甫の死後,楊国忠と反目し755年11月,ついに挙兵。東都洛陽を攻陥すると翌年1月,位につき国を大燕,年号を聖武と定めた。同年6月,都長安を手中にしたころから糖尿病によると思われる眼病,疽を併発。757年(至徳2)1月,後継問題で不安を感じていた次男安慶緒と側近の手にかかり,非業の最期を遂げた。
→安史の乱
執筆者:藤善 真澄
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705~757
唐朝に仕えたソグド人の武将で,安史の乱の首謀者。幽州(ゆうしゅう)節度使の部下から,玄宗,楊貴妃,宰相李林甫(りりんぽ)らにとり入って,751年までに平盧(へいろ)(朝陽),范陽(はんよう)(北京),河東(太原)の3節度使を兼ねた。林甫の死後宰相楊国忠(ようこくちゅう)と権勢を争い,755年国忠討伐を名目として挙兵した。翌756年洛陽で帝位につき,国を大燕(だいえん)と号したが,病気となり,後嗣の問題から子の慶緒(けいしょ)に殺された。
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…過渡期の不安を象徴するかのように,中央では貴族出身の官僚と新興勢力である科挙出身官僚との対立が激しく,また募兵制の採用により各地に配置された節度使,とりわけ貴族出身の宰相李林甫が保身のために利用した異民族出身の節度使たちが勢力を拡大していた。その最強のものが平廬,范陽,河東の3節度使を兼ねた安禄山である。 だが玄宗はしだいに意欲を失い武恵妃さらに実子寿王の妃楊玉環(楊貴妃)を溺愛し,政治を顧みなくなり,管絃,宴遊にうつつをぬかすありさまであった。…
…辺境に常駐する大軍を手中に収める節度使が出現したことは,中央政府の動向に甚大な影響を与えずにはおかなかった。安禄山が平盧節度使になったのが742年,平盧,范陽,河東の3節度使を兼任したのが751年であった。 政治の安定度を計るバロメーターが,登録戸口数の多少で示しうるとするならば,唐朝の建国以来,玄宗朝の末年までは,武韋時期をも含めて,一貫して上昇カーブを描いていた。…
※「安禄山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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