日本歴史地名大系 「善王寺村」の解説 善王寺村ぜんのうじむら 京都府:中郡大宮町善王寺村[現在地名]大宮町字善王寺河部(こうべ)村の南西、中郡平野の西側から張り出している鞍禿(くらはげ)山系の樹枝状の山麓から網野街道沿いへかけて発展した村。地名は元弘三年(一三三三)五月二〇日付熊谷直久軍忠状(熊谷家文書)に「同(丹波)郡内善王寺松田平内左衛門入道焼城畢」とみえるのが早い。中世末の丹後国御檀家帳には、<資料は省略されています>とあり、地名は寺名に由来している。善王寺については、かつて集落の南方山手にあったと伝え、現在板碑などが散在する。慶長検地郷村帳に高七六九・〇八石「善王寺村」と記される。峯山藩領。峯山明細記によれば戸口は一一七軒、四三六人(男二〇四、女二三二)。 善王寺村ぜんのうじむら 宮城県:登米郡米山町善王寺村[現在地名]米山町 善王寺吉田(よしだ)村の端郷。吉田村中央部に広がる低い山地の北側の低湿地帯にあり、南は桜岡(さくらおか)村とや場、北は森(もり)村(現迫町)境吐出(はきだし)、東は小島(こじま)村(現登米町)境針田(はんだ)、西は吉田村愛宕下(あたごした)に接する。石神(いしがみ)遺跡・櫓場(やぐらば)遺跡など縄文時代の遺跡が残り、中世の館として善王寺館跡が残る。朝来(あさご)神社境内の永仁七年(一二九九)のものをはじめとして中世の板碑が七基ほど残り、中世にはすでに開発が進んでいたと思われる。近世には登米伊達氏領となったが、公式には村として扱われることはなかった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by