日本歴史地名大系 「喜瀬村」の解説 喜瀬村きしむら 沖縄県:沖縄島北部名護市喜瀬村[現在地名]名護市喜瀬(きせ)名護(なぐ)間切の南西に位置し、北東は幸喜(ほーき)村、南西は恩納(うんな)間切名嘉真(なかま)村(現恩納村)。背後を山に囲まれた集落は喜瀬(きせ)川が造る沖積低地と名護(なご)湾の海岸砂丘上に立地する。正保国絵図に「きせ崎」とある部瀬名(ぶせな)岬(ブシナ岬)の基部に貝塚時代後期の喜瀬(きせ)貝塚がある。「おもろさうし」巻一四の一六に「なこのうら(名護の浦)」とともに「きせのうら(喜瀬の浦)」がみえる。絵図郷村帳に名護間切「きせ村」とみえる。琉球国高究帳では同間切「喜瀬村」と記され、高頭一四二石余、うち田一二七石余(うち永代荒地三八石余)・畠一四石余。「琉球国由来記」にセカマ森(神名イベヅカサ、現在のシガマムイ)とミヤトヤノ嶽(神名イベヅカサ)、および喜瀬(きし)巫火神と神アシアゲがみえ、これらの祭祀をつかさどる喜瀬ノロは幸喜村・許田(ちゆーだ)村の祭祀も管掌。 喜瀬村きしえむら 鹿児島県:大島郡笠利町喜瀬村[現在地名]笠利町喜瀬(きせ)手花部(ていーぶ)村の南東に位置し、集落は笠利湾の深い入江に臨む。北西に一屯(いつとん)崎、北の湾沿いに浦(うら)、南に川内(こつち)がある。笠利(かさん)間切の笠利方のうちで、キシともいう。隆慶二年(一五六八)八月二四日の琉球辞令書(「笠利氏家譜」奄美大島諸家系譜集)に「きせ」とみえ、「かさりまきりの志よ里の大やこ」、つまり笠利間切の首里大屋子に「きせ」大屋子が任じられている。一屯にある殿内(とのち)墓は喜瀬首里大屋子の墓地と推定されている。ほか地内に珊瑚礁による板石墓がある。嬉姓喜志統親方系譜(同系譜集)に喜世与人がみえている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by