日本大百科全書(ニッポニカ) 「四分統治」の意味・わかりやすい解説
四分統治
しぶんとうち
Tetrarchy
ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(在位284~305)時代に行われた帝国を四つに分ける統治形態。軍人皇帝時代の混乱は、帝国の規模が一皇帝の統治能力を超えていたことと、帝位継承に関する明確な規定がなかったことから生じたものであったが、これを克服するためにディオクレティアヌスは286年に帝国を東西に二分し、さらに293年に東西の各アウグストゥス(正帝)にそれぞれカエサル(副帝)を置いて四分統治を実現させた。すなわち、彼自身は東の正帝として都を小アジアのニコメディアに置き、アシアナ、ポントゥス、オリエントとユーフラテス国境を分担し、また東の副帝ガレリウスは都をシルミウムに置き、トラキア、モエシア、パンノニアとドナウ国境を分担した。一方、西の正帝マクシミアヌスは都をミラノに置き、イタリア、アフリカ、ヒスパニア(スペイン)とサハラ国境を、西の副帝コンスタンティウス1世は都をトリールに置き、ウィエンネンシス(南フランス)、ガリア、ブリタニアとライン国境をそれぞれ分担した。ローマ帝国がこのように四分されて統治されたといっても別個の領域になったわけではなく、4人の皇帝が一つの帝国を共同で統治し、帝国の安全と秩序を確保しようとするものであった。しかし305年にディオクレティアヌスとマクシミアヌスが退位すると、四分統治は有効に機能せず、簒奪(さんだつ)と内乱が再びまきおこった。
[市川雅俊]