日本大百科全書(ニッポニカ) 「囲米・囲籾」の意味・わかりやすい解説
囲米・囲籾
かこいまいかこいもみ
江戸時代に幕府や諸藩が、備荒用または軍事用、あるいは米価調節を目的として米を貯蔵したことをいう。置米(おきまい)とか詰米(つめまい)ともいわれたが、腐敗のおそれがある白米でなく、籾で貯蔵する場合が多かったので囲籾ともいわれた。幕府は当初、おもに軍事上の目的で、幕府直轄地はもちろん譜代(ふだい)大名に対しても貯米(城詰米)を奨励した。しかし泰平が続くうちに、これら囲米は、軍事用よりはむしろ備荒用としての性格が濃厚になった。幕府は一般諸大名に対しても、1683年(天和3)令を初見として、しばしば備荒のための囲米令を発した。1753年(宝暦3)には、高1万石につき籾1000俵の割合で貯蔵するよう諸大名に命じている。さらに1789年(寛政1)には、高1万石につき50石ずつの囲米を翌年より5年間続けるよう令し、同時に旗本に対しても囲米を奨励している。その結果、1843年(天保14)現在、幕府自身の囲米は55万石、諸藩の囲米は88万石にも達した。
幕府・諸藩では、農民や町人に対しても凶年に備えての貯穀を奨励した。この備荒貯蓄制度には、豪農・豪商ら富裕民の義捐(ぎえん)米をおもに蓄える義倉(ぎそう)、住民の供出米をおもに蓄える社倉(しゃそう)、領主の下賜米をおもに蓄える常平倉(じょうへいそう)があった。これらの貯穀・貯金は凶年の際に放出されたが、平年でも救済的な貸付けに利用された。もっともこの三倉の概念の差異はそれほど明確ではなく、呼称は違っても実態はほぼ似ている場合が多かった。幕府は大都市の飢饉(ききん)対策としても囲米を奨励した。1789年(寛政1)には大坂の天満(てんま)川崎に官費で蔵を建て、官費および大坂の有志市民の醵出(きょしゅつ)金で買い上げた米穀をこれに貯蔵した。また江戸に対しては1791年、町入用の節約高の70%を毎年町会所に積み立てさせ、その積金によって籾を蓄えるという七分積金(しちぶつみきん)令を発し、不時に備えさせた。このほか幕府は、米価調節のために諸藩や豪商・豪農らに対し、一時的な囲米をしばしば命じた。囲米の制は、近代に入ると、交通の発達、貿易の進展などにより、貯穀の必要がほとんどなくなったために消滅した。
[竹内 誠]