国会議事堂放火事件
こっかいぎじどうほうかじけん
Reichstagsbrand ドイツ語
ヒトラー政権が成立して1か月後の1933年2月27日夜、ベルリンの国会議事堂で起こった放火事件。事件直後、現場でオランダの元共産党員ファン・デア・ルッベが放火犯人として捕らえられ、数日後にはドイツ共産党のトルグラー、ブルガリア共産党のディミトロフら4人が共犯として逮捕された。裁判ではトルグラーら4人は証拠不十分で無罪となり、ルッベのみが死刑となった。この事件は今日でも不明な点が多く論議をよんでいる。ルッベの単独犯行説もみられるが、一般にはゲーリングらナチス首脳が深く関与していたと信じられている。というのも、ナチス政府は事件を機に国際共産主義の脅威をあおり、共産党、社会民主党など左翼を徹底的に弾圧しつつ3月5日の総選挙に臨んだからである。さらに事件の翌28日には、緊急令によってワイマール憲法を事実上廃止し、ナチス党のテロ独裁樹立への第一歩が踏み出されており、高度に政治的な意味がこの事件には与えられたからである。
[吉田輝夫]
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国会議事堂放火事件
こっかいぎじどうほうかじけん
Reichstagsbrand
1933年2月 27日夜,ドイツの国会議事堂が放火のため炎上した事件。同年1月 30日,A.ヒトラーは首相に任命されると2月1日国会を解散し,ナチス党の優位を築こうとした。国会議事堂炎上後の2月 28日ヒトラーは緊急令によって憲法の基本的人権を停止し,共産党を事実上非合法化するとともに社会民主党の選挙活動を弾圧,3月5日の総選挙で 288議席 (全議席 647) を得た。放火犯人はオランダ共産党の M.バン・デル・ルッベという青年とされているが,同時に放火容疑で逮捕されたブルガリア共産党の G.ディミートロフは同年 10月ライプチヒの公判廷でナチス批判を展開し,内外の注目を集めた。
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国会議事堂放火事件(こっかいぎじどうほうかじけん)
1933年2月27日ベルリンの国会議事堂で起こった放火事件。放火犯人としてオランダの元共産党員マリヌス・ヴァン・デア・リュッベが現場で捕えられた。ナチスはこの事件を共産党の計画的犯行と断定して同党を弾圧するとともに,緊急令を発して憲法の基本権条項を停止した。この事件では早くからナチス謀略説が唱えられ,学界でも争われたが,リュッベの単独犯行を否定する証拠は出ていない。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
国会議事堂放火事件
こっかいぎじどうほうかじけん
1933年2月27日夜,ドイツの国会議事堂が放火された事件
ヒトラーは火災発生後ただちに犯人ルッペ(もとオランダ共産党員)を検挙し,共産党の放火と公表して大弾圧を加えた。1週間後の総選挙に向けて,ナチスが起こした事件ともされたが,真相は不明。
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