改訂新版 世界大百科事典 「国鉄行政整理反対闘争」の意味・わかりやすい解説
国鉄行政整理反対闘争 (こくてつぎょうせいせいりはんたいとうそう)
1949年,経済九原則に基づくインフレ収束の過程で,大量解雇をめぐって争われた官公庁および民間における一連の争議の天王山と目された国労(国鉄労働組合)の闘争。国鉄9.5万人を含め実質約17万人(定員では約23万人)もの官公職員の整理を定めた行政機関職員定員法は,49年5月末に国会を通過した。国鉄における闘争は,その直後,定員削減につながる〈新交番制〉に反対する国電ストと人民電車事件によって本格的に開始された。6月末の中央委員会で国鉄労組は,公労法をあえて無視して〈ストをも含む実力行使〉を決議した。しかし,下山事件,三鷹事件の衝撃や(国労)民同派による組合分裂の動き,左派内部にもあった占領軍による弾圧への恐れからくるためらいなどが重なって,国鉄労組は解雇通告が発せられた7月の決定的段階でこの決議を実行に移せず,解雇は大きな抵抗なしに遂行された。また民同派中闘の発した零号指令によって被解雇者の組合員資格が奪われ,左派系役員は組合から放逐された。国労に続き全逓でも,8月に約2.7万人の解雇が実施され,また左派役員の解雇に関連して組合が左右に分裂した。行政整理反対闘争のこのような形での敗北は,日本の労働組合の指導権が産別会議=共産派から民同派へと移行することを決定づけるものとなった。
→民同運動
執筆者:青木 正久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報