日本大百科全書(ニッポニカ) 「国鉄労働組合」の意味・わかりやすい解説
国鉄労働組合
こくてつろうどうくみあい
略称国労。全国労働組合連絡協議会(全労協)加盟組合。JR各社(旧、日本国有鉄道=国鉄)とその関連会社に働く労働者、および会社と係争していた被解雇者を組織している組合。組合員数約9000人(2016)。
1946年(昭和21)2月、旧国鉄関係労働組合の連合体、国鉄労働組合総連合として発足したが、翌1947年の二・一スト後、6月5日単一組織体に改組して国鉄労働組合となった。結成当時の組合員数約56万人。1948年7月のマッカーサー書簡と政令二〇一号により他の公務員労働者とともにストライキ権を剥奪(はくだつ)されたが、国鉄と、たばこなどの専売事業が公社化され、同年12月制定の公共企業体労働関係法(公労法。現、行政執行法人の労働関係に関する法律)により他の公務員とは違った労使関係法が適用されることになった。
1949年の行政整理と下山(しもやま)事件、三鷹(みたか)事件、松川事件などを理由とする攻撃で左派勢力が後退し、1947年11月に結成された国鉄反共連盟(後の国鉄民主化同盟)の民同派が主導権を握り、これに反発して1948年4月国鉄労組革新同志会(革同)が結成された。その後、民同派は1951年の講和問題を機に、右派が新生民同を結成、組織的には1951年5月に国鉄機関車労働組合(機労。1959年以降国鉄動力車労働組合=動労)となった。
国労は公共企業体等労働関係法の枠に縛られながら、1953年10月の公共企業体等労働組合協議会(公労協、1987年以降国営企業等労働組合協議会)結成前後から、争議行為を禁止した公労法の枠内で休暇闘争・順法闘争・職場大会戦術などで闘争力をつけ、1950年代後半にはそれらの戦術が事実上のストライキとなり、1960年の安保闘争では労働組合の先頭にたって新安保反対の政治ストを実施、1961年の春闘ではかつてない「半日ストライキ」を指令(仲裁裁定により中止)、1964年の四・一七スト(総評議長太田薫(かおる)と首相池田勇人(はやと)の会談により中止)では中心的な役割を果たした。ベトナム反戦闘争とともに、1967年から1968年にかけて5万人削減「合理化」反対闘争、1969年から1971年にかけて、国鉄当局が「国鉄財政再建」を目標とする生産性向上運動を強行したことに反対して、「マル生」(生産性向上運動)反対闘争を組織し、1975年の「スト権スト」では中心的存在となり、全国の国鉄を8日間にわたってマヒさせる影響力を示した。しかし、1980年代の行政改革のなかでは国鉄改革=分割・民営化が最大の眼目とされ、その過程で大きな組織分裂に見舞われた。
中央本部執行部提案の分割・民営化反対方針転換案を否決した1986年10月修善寺(しゅぜんじ)臨時大会後の組織分裂は、かつてない規模になった。修善寺大会後は旧反主流派の執行部が国鉄分割・民営化反対闘争を継続したが、大会後は旧主流派が新しい組織の旗揚げを進め、各地方本部の分裂を経て翌1987年2月に日本鉄道産業労働組合総連合(鉄産総連。1992年以降日本鉄道労働組合連合会=JR連合、組合員数8万2000人)が結成された。またその間にも、同年4月からの新会社発足を前に国労脱退者が続出し、分割・民営化直後の国労は組合員4万4000人の組織になった。2014年(平成26)時点で、JR関係のおもな労働組合には、国労とJR連合のほかに全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)がある。JR各社のなかで少数組合となった国労は、北海道と九州などで差別的に不採用となって解雇された組合員など1047人の地元採用闘争を継続するとともに、分割・民営化前後から続く会社側の不当労働行為責任を追及し、ほとんどすべての事件で労働委員会の救済命令を獲得した。その数は1999年6月時点で212件1万4483名に達した。1975年(昭和50)秋のスト権ストに対する国鉄の202億円損害賠償請求事件は、1994年(平成6)12月に国労が東京駅八重洲(やえす)口南にある国労会館を明け渡すことでその取り下げが合意された(1997年国労会館は新橋へ移転)。
[大野喜実・川崎忠文・早川征一郎]
前述したように、1987年(昭和62)の国鉄分割・民営化に際しJR各社に採用されなかった者のうち、1990年(平成2)4月、国鉄清算事業団からも解雇された1047名の労働者(その大部分が国労および全動労組合員)については、いわゆる1047名不当解雇問題(国鉄闘争)として闘争団を結成し、国労などがそれを支える形で不当解雇撤回闘争が行われた。闘争は紆余(うよ)曲折を経たうえ、きわめて長期化した。2010年6月、最高裁判所において解決金などの和解が成立して一応の区切りがついたが、JRでの雇用は実現しなかった。2011年7月の国労大会において闘争終結が承認され、ここに1987年(昭和62)以来、23年に及ぶ国鉄闘争の幕が閉じられた。
[早川征一郎]
『国鉄労働組合編『国鉄労働組合50年史』(1996・労働旬報社)』▽『法政大学大原社会問題研究所編『JR不採用問題の和解と今後の課題』(『日本労働年鑑第81集』所収・2011・旬報社)』