下山事件(読み)シモヤマジケン

デジタル大辞泉 「下山事件」の意味・読み・例文・類語

しもやま‐じけん【下山事件】

昭和24年(1949)行方不明になっていた国鉄総裁下山定則が常磐線綾瀬駅付近轢死れきし体となって発見された事件。総裁が国鉄職員の大量整理案を発表し、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中のため、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えた。事件は真相不明のまま捜査打ち切りとなった。

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精選版 日本国語大辞典 「下山事件」の意味・読み・例文・類語

しもやま‐じけん【下山事件】

  1. 昭和二四年(一九四九)七月六日、国鉄総裁下山定則が常磐線綾瀬駅付近で轢死体で発見された事件。当時、国鉄職員大量整理の最中で労働組合の反対闘争が激化しており、下山事件後まもなく三鷹事件松川事件が起きた。下山総裁の死因については他殺、自殺両説が対立したが、結局決め手のないままに捜査は打ち切られた。

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改訂新版 世界大百科事典 「下山事件」の意味・わかりやすい解説

下山事件 (しもやまじけん)

1949年7月5日,日本国有鉄道(1949年6月1日公共企業体として再発足。現JR)の初代総裁下山定則が,登庁の途中に日本橋の三越本店へ入ったまま行方不明となり,6日,常磐線綾瀬駅付近の線路上で轢(れき)死体となって発見された事件。国鉄は,ドッジ・ラインの一環として6月1日施行の行政機関職員定員法にもとづいて,職員62万3000余名のうち12万0413名(19.3%)の人員整理に着手し,7月4日第1次整理3万0700名の通告を行った。これに対し,国鉄労働組合が反対闘争に移ろうとしたやさきの事件発生であった。政府(吉田茂内閣)は他殺説を唱え,新聞も共産党員・労組員の犯行を想像させる報道をした。下山の死について,東大教授古畑種基らの解剖結果による死後轢断の他殺説と慶大教授中館久平らの自殺説とが対立し,警視庁捜査二課と《朝日新聞》は前者,捜査一課と《毎日新聞》は後者と,意見が分かれた。現場近くの旅館で5日午後に休息した人物が下山に似ていることから,自殺の可能性が濃くなったが,作家松本清張のアメリカ軍謀略説も有力視されている。結局,有力な決め手のないまま迷宮入りし,64年7月に時効となった。続いて起こった三鷹事件(7月15日),松川事件(8月17日)とともに,事件が当時の労働運動に与えた影響は大きく,労組は反対闘争の出鼻をくじかれ,国鉄は第1次につづいて,7月12日第2次整理6万3000名の通告に踏み切った。また民間企業の人員整理をも容易にする手段に利用された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下山事件」の意味・わかりやすい解説

下山事件
しもやまじけん

1949年(昭和24)7月5日、国鉄初代総裁下山定則(さだのり)(同年6月1日就任)が行方不明となり、翌6日常磐(じょうばん)線綾瀬(あやせ)駅付近で轢死(れきし)体となって発見された事件。死因をめぐり自殺説、他殺説が捜査当局、ジャーナリズム、法医学界それぞれを二分するという前例のない事態となった。半年後、警視庁は自他殺を明言しないまま捜査本部を閉じ、真相は謎(なぞ)に包まれたまま64年の時効成立で迷宮入りとなった。事件に関する各種資料のほとんどはなお未公表である。

 当時ドッジ・ラインの一つの柱として行政機関職員定員法による人員整理(定員3割減)が予定されており、国鉄9万5000人の首切りは、官公労組織の中核、国鉄労組との対決という点でも、一連の整理の最大の山であった。事件は、ストを含む実力行使の方針を決定していた国鉄労組の反対闘争の出鼻をくじき、さらに民間側の人員整理にも大きな影響を与えた。三鷹(みたか)、松川両事件と並び戦後史の大きな転機をつくった事件である。

[荒川章二]

『松本清張著『日本の黒い霧』(文春文庫)』『下山事件研究会編『資料・下山事件』(1969・みすず書房)』『矢田喜美雄著『謀殺・下山事件』(1973・講談社)』『佐藤一著『下山事件全研究』(1976・時事通信社)』『田中二郎他著『戦後政治裁判史録 第1巻』(1980・第一法規出版)』

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百科事典マイペディア 「下山事件」の意味・わかりやすい解説

下山事件【しもやまじけん】

1949年7月5日ゆくえ不明となった初代国鉄総裁下山定則が,翌日,常磐線北千住〜綾瀬間で轢死(れきし)体となって発見された事件。当時国鉄労組は9万人の人員整理案に反対する闘争を行っており,7月4日第1次整理の通告をうけて本格的闘争に移ろうとするやさきのことだった。政府は当初〈他殺と推定される〉との見解を発表,日本共産党,労組の犯行を想像させる報道もなされた。出ばなをくじかれた国労が,反対運動の態勢をととのえられないうちに,第1次人員整理が実施された。その後警察は自殺と発表したが,解剖にあたった東大法医学教室は死後轢断とし,自殺か他殺か不明のまま捜査が打ち切られ1964年時効となった。松本清張によるアメリカ軍謀略説もある。この年三鷹事件松川事件も起こり,労働運動に大きな影響を与えた。
→関連項目青梅事件古畑種基

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下山事件」の意味・わかりやすい解説

下山事件
しもやまじけん

第2次世界大戦後,日本国有鉄道(国鉄)をめぐって生起した三大事件の一つ。国鉄総裁,下山定則の死去をめぐる事件。連合国総司令部 GHQの命令により国鉄が大量解雇を実施する直前の 1949年7月5日に下山が消息を絶ち,翌6日午前1時20分頃に東京都足立区五反野南町934番地先の常磐線北千住─綾瀬間で轢死体となって発見された。死因について,警視庁が唱える発作的自殺説,法医学者の古畑種基らによる他殺後の死後轢断説,政府が主張する左翼謀殺説の意見が対立。未解決事件として占領期最大のミステリーとなっている。作家の松本清張や,取材にあたった『朝日新聞』記者の矢田喜美雄などが事件をめぐる作品を発表,他殺を示唆している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「下山事件」の解説

下山事件
しもやまじけん

1949年(昭和24)7月6日,国鉄総裁下山定則の轢断(れきだん)死体が東京都足立区綾瀬の常磐線線路上で発見された事件。下山は5日に自宅から専用車で三越本店に入り,そのまま行方不明となっていた。政府は5日が国鉄の第1次人員整理案発表予定日であったため,「他殺と推定」との見解を公表,ストを続けてきた労働組合側を抑圧しようとした。警視庁は自殺説をとったが,古畑種基(たねもと)東京大学医学部教授は「死後轢断」つまり他殺説を主張。のちに作家松本清張は米軍による謀殺説を展開し,論争がマスコミをにぎわせた。三鷹・松川両事件とともに占領軍統治下における謀略事件の一つとする説が有力だが,真相はなお不明である。

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旺文社日本史事典 三訂版 「下山事件」の解説

下山事件
しもやまじけん

1949年7月6日,国鉄総裁下山定則が常磐線五反野 (ごたんの) 付近で轢死した事件
7月4日の国鉄第1次人員整理発表とからんで,他殺かと疑われたが,決め手のないままに自殺として処理された。これ以後,国鉄の人員整理が進み,三鷹・松川両事件とともに労働運動に大きな影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の下山事件の言及

【国鉄行政整理反対闘争】より

…6月末の中央委員会で国鉄労組は,公労法をあえて無視して〈ストをも含む実力行使〉を決議した。しかし,下山事件,三鷹事件の衝撃や(国労)民同派による組合分裂の動き,左派内部にもあった占領軍による弾圧への恐れからくるためらいなどが重なって,国鉄労組は解雇通告が発せられた7月の決定的段階でこの決議を実行に移せず,解雇は大きな抵抗なしに遂行された。また民同派中闘の発した零号指令によって被解雇者の組合員資格が奪われ,左派系役員は組合から放逐された。…

※「下山事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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