国労 (こくろう)
正称は国鉄労働組合。全労協,交運労協に加盟している。ITF(国際運輸労連)にも加盟。第2次大戦直後,国鉄では全国各地,あるいは職能別(車両工場や電車区)に続々労働組合が結成された。1946年2月全国鉄の連合会(国鉄総連合)がつくられ,翌47年6月には50万人国鉄労働者の単一組織,国労に発展改組され今日に至っている。国労は敗戦直後の労働運動のなかで,1946年の7万5000人首切り反対の10月闘争,47年の二・一スト,48年のスト権剝奪の政令201号闘争,49年の首切り行政整理反対闘争(国鉄行政整理反対闘争)などで,産別,全官公の中心部隊の役割を果たした。それだけに,同期のアメリカの占領・労働政策,日本の政治勢力に大きく揺り動かされ,容共と反共の二つの立場からの組合指導権の争奪戦がくり返されることになる。しかし49年の10万人余の大量首切り,翌50年のレッドパージなどの攻撃のなかで左派勢力は後退し,民同派(社会党系)の主導が定着した(民同運動)。50年代以降低迷を続けていた国鉄の労働運動は,56年の春闘発足,57年新潟闘争(国鉄新潟闘争),58年警職法反対闘争,60年安保改定阻止闘争等々,賃上げ闘争のみならず政治闘争を含めて活発になり,国労は日本労働運動の中核組合となった。その後で特筆すべき闘争に,マル生反対闘争(1970-71),スト権奪還闘争(1975。192時間スト)があげられる。1980年以降の国労は,国鉄の膨大な赤字のなかで,〈ヤミ賃金〉〈ブラ勤〉などについての攻撃,新規採用ストップを含めた厳しい合理化攻勢のなかで,苦難の道を歩んでいる。なお国鉄が民営化されJRとなったが,現在は,JRの中に国労のほかにもJR総連(全日本鉄道労働組合総連合会,組合員数6万1500人),JR連合(日本鉄道労働組合連合会,組合員数7万4000人),動労千葉が存在している。国労の組合員数1万4500人(いずれも公称,2009年3月末現在)。
→順法闘争
執筆者:船井 岩夫
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国労【こくろう】
正称は国鉄労働組合。1946年国鉄労働組合総連合の名で発足,1947年改組,同時に改称。第2次大戦後の占領体制下で公労法による規制を受けながらも,炭労とともに激しい闘争を繰り返した。1951年国鉄機関車労組(動労)が分立,さらに1957年の分裂を経て1962年新国鉄労働組合連合(略称は新国労,1968年鉄道労働組合(鉄労)と改称。右派(民社党系))が脱退,分立したが,以後も公労協の中核をなし,1989年の総評(日本労働組合総評議会)解散までその重要な組織であった。国鉄の分割・民営化に終始反対の立場をとったため組合員が離脱し少数組合となった。1987年の民営化後も名称を変更していない。→日本国有鉄道/順法闘争
→関連項目三鷹事件
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世界大百科事典(旧版)内の国労の言及
【国鉄行政整理反対闘争】より
…1949年,経済九原則に基づくインフレ収束の過程で,大量解雇をめぐって争われた官公庁および民間における一連の争議の天王山と目された[国労](国鉄労働組合)の闘争。国鉄9.5万人を含め実質約17万人(定員では約23万人)もの官公職員の整理を定めた行政機関職員定員法は,49年5月末に国会を通過した。…
【JR連合】より
…1991年から92年初めにかけて,JR総連内部で組織分裂が起こり,JR西労組,JR東海労組,JR九州労組で分裂・脱退が相次いだ。他方,鉄産総連は,87年に,国鉄の分割・民営化方針をめぐる対立により,国労から脱退したグループによって結成された組織であった。この鉄産総連と,JR総連を脱退した労組が,合同して92年3月にJR内に新たな産業別組織を目指す準備会を発足させ,5月にJR連合を結成した。…
【順法闘争(遵法闘争)】より
…鉄道部門においてこの種の戦術が採用されたのは古く,1898年日鉄機関方が賃金引上げや職名改正の要求でストライキを行った([日鉄機関方ストライキ])さい,〈規定に反し無理勉強せざること〉が争議の戦術としてあげられている。 1948年官公部門のストが禁止され,49年民同派(〈[民同運動]〉の項参照)が[国労]の指導部を構成して以降,賃上げの仲裁裁定を完全実施しない政府への抗議闘争の一環として,国労は検査規定の完全実施,作業内規の完全励行,機関車の入出庫時間の厳守などを内容とする順法闘争を指令している。国労の順法闘争は最初民同派の戦術論である〈合法闘争〉が基盤となったといえるが,その後,国労でストライキが実施されるようになると労働組合に打撃が少なく,当局に打撃が大きい効果的な戦術として多用されるようになった。…
【マル生反対闘争】より
…赤字に転落した国鉄再建のために1969年に国鉄財政再建促進特別措置法が制定されたさい,国鉄当局はその実施にあたって労使関係の変更が必須の条件であると判断した。1960年代後半には現場協議協定の発効もあり,[国労],動労の戦闘力,規制力が強化されていたためである。最初,当局は[日本生産性本部]に依頼して管理職から一般職員にいたる体系的な生産性教育を実施し,受講生による労働組合との対抗グループを組織した。…
【三鷹事件】より
…1949年7月15日夜,国電中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走し,駅前の民家などに突入して死者6名,負傷者20名を出した事件。当時,吉田茂内閣は行政機関職員定員法による行政整理をすすめていたが,国鉄当局は7月4日に第1次人員整理を通告,12日に第2次通告を発表し,国鉄労働組合(国労)は反対闘争に入っていた。また闘争最中の同月5日には[下山事件]がおきた。…
【労働運動】より
…弾圧が強いためもあり,恒常的な組織を欠くこともこの時期の特徴である。[ラッダイト運動]はその好例であり,R.オーエンに指導された全国労働組合大連合(1834)も単に労働時間の短縮だけでなく,新しい秩序を目ざす運動であった。[チャーチスト運動]は労働者階級による最初の大規模な政治的運動であった。…
【労働組合】より
…こういう組合が組合員数で約21%(1996。1983年には約30%を占めていた)を占めているだけでなく,たとえば[自治労],[日教組],[全電通],[国労],[全逓],国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)などの巨大組合はこれらの公務員または教職員の組合かその連合体であるため,[スト権奪還闘争],公労委(公共企業体等労働委員会)の仲裁問題,人事院勧告の完全実施など,これらの組合の運動が世人の注目を浴びてきた。
[変化する諸条件]
以上の特徴は次に述べる事情によって変わりつつある。…
※「国労」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」