改訂新版 世界大百科事典 「民同運動」の意味・わかりやすい解説
民同運動 (みんどううんどう)
第2次大戦後の労働運動において,共産派と対立し組合民主化を標榜して展開された運動の総称で,1948年2月に産別民主化同盟(産別民同)が結成されて以降,この用語が多用されてきた。日本の労働運動は太平洋戦争で敗戦に至るまでの約10年間空白が続いたが,敗戦によって戦時中の大衆運動などに対する弾圧法規などの制約が撤廃されたこと,食糧不足や悪性インフレによる生活苦に加え,アメリカ占領軍初期の占領政策の一環として労働組合結成が奨励されたこともあり,燎原の火のように組合結成が広がり,労働運動は息を吹き返した。戦争直後の運動は1946年8月あいついで結成された総同盟,産別会議の二つの流れに大別されるが,運動の主導権は圧倒的に産別会議が握っていた。産別会議は指導部主要メンバーの大多数が共産党員によって占められて共産党の強い影響下にあり,共産党フラクションによる組合引回しが目立った。このような状況下で1945年から46年にかけて生産管理闘争・十月闘争と労働攻勢が展開され,さらに47年空前絶後ともいうべき二・一スト態勢へと盛り上がった。しかし二・一ストは占領軍の中止命令によって挫折したことから,それまでの強引な共産党指導に対する産別会議内部の自己批判の声が高まり,そのための臨時大会が開催されたが,この大会は逆に自己批判を封ずる結果となり,それまでにも生じていた共産党フラクション活動に対する内部の不満が噴出し,産別会議前事務局次長の細谷松太らを中心に〈組合を組合員の手に〉をスローガンに48年2月産別民主化同盟(民同派と呼ばれる)が結成された。その前後には総同盟の民主化運動の提唱,国鉄反共連盟結成などもあり,産別民同の結成は戦後労働運動再編成を決定的にした。
産別民同の目標は,〈資本・権力・政党からの自立〉という組合民主主義と自主性確立を目指した組合本来のあり方についての自覚を促す運動であった。この民同運動は2年足らずのうちに官民を問わず全体に波及し,運動の主導権を握った。ただ反共意識のみが先行し,本来の目的からそれた部分も否定できず,以後民同派の中で左右の分化を生じ,その後の総評結成(1950年7月)をめぐってもこれが尾を引き,以後の運動に大きな課題を残すこととなった。なお産別民同は1949年12月新産別に組織替えした。
執筆者:富田 弘隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報