朝日日本歴史人物事典 「園田孝吉」の解説
園田孝吉
生年:嘉永1.1.19(1848.2.23)
明治期の実業家。大隅国太良村(鹿児島県大口市)に薩摩(鹿児島)藩士宮内健吉の長男として生まれ,のち園田沢右衛門の養子となる。薩英戦争を目の当たりにして洋学の必要を痛感し,英語を学ぶ。東京に出て大学南校(東大)を卒業し,外務省に勤務。明治7(1874)年から22年まで前後15年におよぶロンドンでの勤務ののち,松方正義の斡旋により23年横浜正金銀行(東京銀行)頭取に就任した。この時期の正金は内外商工業の不振から業績が冴えず,人事の不協和音も生じていた。園田は綱紀の粛正に腐心し,日本銀行から新たに本店支配人を迎えるなどの改革を断行し業務の立て直しをはかった。日清戦争の戦後処理ではロンドンに赴き,清国からの賠償受取の事務を陣頭指揮した。30年健康を害し,頭取を辞任。31年請われて十五銀行(のち三井銀行に合併)頭取に就任した。十五銀行は国立銀行の中でも華族の出資による特殊な銀行として政府によって手厚く保護されていたが,普通銀行への転換の過程で経営危機が表面化していた。園田は一般の銀行業務を開始し,顧客に対するサービスの徹底など普通銀行としての体質改善に努めた。「銀行信用の基礎は徳義心にあり」とする園田の努力により十五銀行は見事に大商業銀行に変身した。大正4(1915)年持病の悪化により頭取を辞任。東京銀行集会所副会長,帝国運輸倉庫社長をはじめとし多数の会社役員を務めた。12年関東大震災で罹災し死去。<参考文献>荻野仲三郎『園田孝吉伝』
(島田昌和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報