倉役とも。室町幕府による京都の土倉への課役。鎌倉時代後半から京都で金融業を営む土倉は大きな経済力をもち,多くは比叡山延暦寺や祇園社の被官などで,課役が課されていた。朝廷は臨時に賦課を試みていたが,室町幕府は1393年(明徳4)幕府への酒屋土倉役の負担を条件に,土倉への諸権門の権利を否定し支配下に入れた。土倉役の徴収はのちに納銭方となる有力土倉が行い,請け負っていった。15世紀中頃の土倉役は,月に200貫文前後と推定される。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… 室町幕府がこれら土倉を支配下に入れるのは1393年(明徳4)である。幕府はこのとき旧来の権門勢家の既得権をすべて否定し,年額6000貫の酒屋土倉役と引換えに,その他の臨時課役いっさいを免除した。とはいえ幕府に土倉を直接掌握できるだけの組織があったわけではなく,土倉の中の有力者を介して役銭の徴収を行っており,彼らが後に〈納銭方〉と呼ばれるものになった。…
…室町時代,洛中洛外の土倉で幕府の保護統制下にあり,土倉役と称する課役を負担したもの。14世紀初頭の京都にはすでに300余軒の土倉があったとされるが,その8割方は山門(延暦寺)の被官であった。…
…このころの納銭方とよばれるものの実態は,数軒から数十軒の酒屋・土倉を傘下にもち,酒屋であれば酒壺を,土倉であれば質物の員数を基準に,幕府に対し納銭の義務を負うものであったと考えられる。15世紀中葉以降,徳政一揆の強請により徳政令が出されるようになると,そのたびに土倉役の納入は停止し,納銭方よりの収入を将軍の生活費などとして予定していた幕府にとっては大きな打撃となった。そこで幕府は,一方で分一銭(ぶいちせん)納入を徳政令適用の条件とするとともに(分一徳政),他方納銭方を請負制にして,収入の安定化を計った。…
…室町幕府の発布した徳政令のうちで,債権額・債務額の5分の1ないし10分の1の分一銭を幕府に納入することを条件に,債権の確認または債務の破棄を認めたもの。室町幕府が発布した最初の徳政令は1441年(嘉吉1)のそれであるが,幕府の命令によって質物の返却が行われた結果,質物の員数を基準に賦課していた土倉役の納入が停止してしまった。この経験に鑑み,54年(享徳3)に徳政一揆が蜂起したときには,幕府は徳政禁制を出して容易には徳政令を発布しなかった。…
※「土倉役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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