室町幕府がその支配下にある酒屋・土倉(どそう)より役銭を徴収するために設けた機関。室町幕府が洛中洛外の酒屋・土倉を一元的に支配するようになったのは1393年(明徳4)と考えられている。それまでの酒屋・土倉は,山門(延暦寺)をはじめとする寺社や貴族に,有力酒屋・土倉に率いられたグループとして掌握されていたものと思われる。幕府が支配権を得たといっても個々の酒屋・土倉を直接統治できる機構があったはずもなく,既存の体制を温存しつつ支配力を強めていくほか方法はなかった。これが納銭方の最初であったと考えられる。6代将軍足利義教の初政期1430年代には,土倉統制のためのいくつかの法令が出されて幕府の規制が強まるとともに,納銭方会所(かいしよ)なるものが史料に見え,同業者としてのまとまりも見えるようになる。このころの納銭方とよばれるものの実態は,数軒から数十軒の酒屋・土倉を傘下にもち,酒屋であれば酒壺を,土倉であれば質物の員数を基準に,幕府に対し納銭の義務を負うものであったと考えられる。15世紀中葉以降,徳政一揆の強請により徳政令が出されるようになると,そのたびに土倉役の納入は停止し,納銭方よりの収入を将軍の生活費などとして予定していた幕府にとっては大きな打撃となった。そこで幕府は,一方で分一銭(ぶいちせん)納入を徳政令適用の条件とするとともに(分一徳政),他方納銭方を請負制にして,収入の安定化を計った。15世紀後半から16世紀にかけての納銭方は,酒屋・土倉役の請負者と称してよいであろう。土倉の中には〈公方御倉(くぼうおくら)〉といわれて将軍家の財産管理にあたる者がいたが,公方御倉に指名されることが納銭方になる基礎資格のようになった。このころの納銭方には,定泉坊,定光坊のような法体の有力土倉と,沢村,中西,河村,野州井のような有力酒屋で俗人の者とがいた。
執筆者:桑山 浩然
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町幕府の財政官庁である政所(まんどころ)の被官で、徴税請負の機能をもつ民間の集団。室町幕府は、鎌倉時代に延暦(えんりゃく)寺が保有していた洛中(らくちゅう)の土倉(どそう)・酒屋に対する徴税権を1393年(明徳4)に没収、この措置に伴い土倉・酒屋の有力者を選んで倉役・酒屋役納入のための請負集団を組織した。これには、将軍家家産の管理にあたった正実坊(しょうじつぼう)、定光坊(じょうこうぼう)など坊号をもつ法体(ほったい)の有力土倉たる公方御倉(くぼうみくら)のなかから任命された者が多かったが、のちには沢村(さわむら)、野洲井(やすい)など俗人の酒屋が加わった。ここからの収入は幕府政所の要脚(費用)に充当された。
[今谷 明]
『桑山浩然「室町幕府経済機構の一考察――納銭方・公方御倉の機能と成立」(『史学雑誌』73編9号所収・1964・山川出版社)』
納銭方一衆とも。室町幕府が酒屋・土倉などに課税した諸商売役銭の徴収にあたった組織。有力な酒屋・土倉から構成された。幕府は14世紀末に洛中と近郊の酒屋・土倉の把握に乗り出し,山門(延暦寺)など権門の酒屋・土倉に対する支配を排するかわりに,将軍家の諸生活費にあてるための課税対象とした。その徴収の実務を担当したのが酒屋・土倉の有力者で,のちに納銭方と称された。彼らは各自支配下にもつ数十軒程度の酒屋・土倉から役銭を徴収,幕府に納銭した。延暦寺山徒の定泉坊・定光坊など公方御倉(くぼうみくら)を勤める土倉から選ばれた者と,沢村・中村・野洲井ら俗人の酒屋から任じられた者で構成された。15世紀後半以降は,役銭の収納請負機関化する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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