山畑村(読み)やまばたむら

日本歴史地名大系 「山畑村」の解説

山畑村
やまばたむら

[現在地名]岡崎市福岡ふくおか

土呂とろ八幡宮付近に位置し、集落は土呂村と交錯している。「深溝荘土呂山畑村」「土呂郷山畑村」などと記される。近世初頭に土呂村より分村。明和五年(一七六八)成立の「土呂山畑今昔実録」には「山畠村ト号スル事、田方トテ少モナク茶園畑ケ計リ故」としている。土呂本宗ほんしゆう寺領であったが、永禄七年(一五六四)三河一向一揆鎮圧後は、石川数正領になる。元亀四年(一五七三)に村域の一部が上林竹庵の茶園となる。竹庵は天正一八年(一五九〇)土呂山畑・上地うえじ高須たかすで四五石余の持高となる。

天正一八年に岡崎城主田中吉政領。同年に宮部善祥房の検地畑地のみの村高二〇三石余。慶長六年(一六〇一)幕府領、同九年の三浦庄兵衛検地高も畑地のみで二二二石余(土呂山畑今昔実録)


山畑村
やばたむら

[現在地名]伊賀町山畑

愛田えた村の南、阿拝郡の東南隅に位置する。れい(七六五・八メートル)は北東にそばだち、その南方に源を発するたき川は村の東部倉谷くらだに白藤しらふじ滝をつくり村の中央を西流する。天正八年(一五八〇)一二月、伊賀一宮祭礼のために下向した吉田兼見は「ヤハタ」の者に安鎮の札を授与している(「兼見卿記」一二月一五日条)

寛文二年(一六六二)古検を改めている。本高五四五・四石、平高五八〇・五二石。


山畑村
やまたけむら

[現在地名]八尾市山畑・ひがし町二―五丁目

大窪おおくぼ村の南、高安山麓に位置する。南は服部川はつとりがわ村。高安郡の諸村は、多くは一つ一つの谷川沿いに発達しており、当村は山畑川に沿う。謡曲「弱法師」の主人公俊徳丸の故郷高安里たかやすのさとは当地とする伝えがあり、伝承に基づく遺跡地がある。現存するものに山畑長者屋敷(俊徳丸の生家跡)といわれる所や俊徳丸鏡塚があり、長者が毎日の箸を捨てたため没落の原因にもなったという箸塚もあったが、今は消滅した。鏡塚は古墳後期の円墳であるが、俊徳丸の鏡塚として伝えられてきた。


山畑村
やまはたむら

[現在地名]徳地町大字山畑

土田つちだヶ岳の南西に位置し、北は深谷ふかだに、西はほり、東はくし、南は島地しまじの各村に接する。村の南部を大野おおの川が西流し、南西部を北西に流れる島地川に合流する。これらの川岸に少々の水田があり、集落も点在するが、村域のほとんどが山地。萩藩領で徳地宰判に属した。

近世初期には中徳地なかとくじの一部であったと思われる。「地下上申」(享保一四年分)で独立した一村として記され、総石高九六一石余(田方七一八石余、畠方二一一石余)、家数一二一、人数四九二、村内の小村として下畑しもはた中村なかむら大久保おおくぼ・大野・浅木あさぎ・うす谷・宗畑・向原むかいばらをあげる。同書の元文二年(一七三七)分では総石高九六七石余、家数一三九、人数三五三。


山畑村
やまばたむら

[現在地名]真玉町臼野うすの 横山よこやまなど

横内よこうち村の東方、臼野川の最上流、猪群いのむれ山北麓に位置する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高一九三石余で、家数四五のうち本家(本百姓・小百姓)一二、隠居・庭屋・牛屋三三、人数男三三(うち名子三)・女二六、牛一六・馬二。正保郷帳では香々地かかじ庄に属し、田高九一石余・畑高一九五石余で、茅山有、柴山有、日損所、新田有と記す。元禄郷帳では高二九六石余。享保二年(一七一七)の延岡藩領知目録写(牧野家文書)に村名がみえ、延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳(内藤家文書)では高二九四石余、新田二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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