土岐郡(読み)ときぐん

日本歴史地名大系 「土岐郡」の解説

土岐郡
ときぐん

面積:一三・四六平方キロ
笠原かさはら

県の南東部に位置し、東は土岐市、西は多治見市、南は愛知県瀬戸市に接している。瑞浪みずなみ市・土岐市・多治見市が成立したため、現在の土岐郡は笠原町一町となった。旧郡域は東は恵那市・恵那郡山岡やまおか町・瑞浪市すえ地区、南は愛知県西加茂にしかも小原おばら村・瀬戸市・春日井かすがい市、西は可児かに御嵩みたけ町・可児市・多治見市池田いけだ地区、北は木曾川を挟んで加茂郡八百津やおつ町に接していた。ほぼ北東から南西に流れる土岐川流域を中心に広がる丘陵地帯を占める。中・南部は比較的に山勢は低く、屏風びようぶ(七九四・一メートル)三国みくに(七〇一メートル)を除くと標高二〇〇メートルほどの丘陵地帯が広がる。北部は標高四〇〇メートルを超える高原地帯であり、木曾川が三〇〇メートルも浸食して流れている。この旧郡域には新生代第三紀の地層が広く分布し、そのなかでも瑞浪層群とよばれる中新世中期の地層には、ウラン鉱や亜炭のほかに各種の動植物化石が包含され、化石の宝庫となっている。またこの地域には土岐口陶土層が広く分布し、有数の陶器の産地となっている。古代・中世には東山道、近世には中山道が東西に通り、現在は土岐川に沿って国道一九号、中央自動車道、JR中央本線が走り、長野県に抜ける交通の要所に位置している。

〔原始・古代〕

先土器時代の遺跡は土岐市駄知だち西山にしやま遺跡などがあるが十分解明されていない。縄文遺跡は早期の瑞浪市稲津いなつ萩原の沖平はぎわらのおきだいら遺跡、前期は瑞浪市釜戸かまど上屋うわや遺跡、中期は笠原町の笠原一号遺跡、後期は瑞浪市土岐町ひら遺跡、晩期は瑞浪市日吉ひよし町の南垣戸みなみがいと遺跡などがある。弥生遺跡は中期の土岐市下肥田しもひだ遺跡、後期の瑞浪市土岐町益見ますみ遺跡などがある。古墳ではまず瑞浪市明世あきよ戸狩の戸狩荒神塚とがりのとがりこうじんづか古墳をあげることができる。この県内最大級の円墳は土岐市小田おだ台地の土岐郡家・駅家設置説の根拠となっている。このほかには、土岐市の乙塚おとづか古墳(七世紀)、笠原町の狐塚きつねづか古墳(七世紀)などの古墳があげられる。

「日本書紀」天武天皇五年(六七六)四月二二日の条に「礪杵郡に在る紀臣訶佐麻呂の子をば東国に遷して、即ち其の国の百姓とせよ」とある。この礪杵とき(郡は評の修飾か)が郡名の初見である。同書朱鳥元年(六八六)一〇月二日条によれば、大津皇子事件の際、皇子に荷担したとして捕らえられた者のなかに帳内礪杵道作がいる。その氏称から当郡(当時は評)を本拠地とする地方豪族の出身と考えられる。奈良時代以降礪杵に代わって土岐の字が用いられるようになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報