日本の暦法の一つ。日本では、中国伝来の「宣明(せんみょう)暦」が861年(貞観3)施行されて以来、800有余年を経て天象との相違が2日にも達した。渋川春海(しぶかわはるみ)(保井(やすい)春海)は中国元朝の「授時(じゅじ)暦」に範をとり、自らの実測に基づき「大和暦(やまとれき)」をつくった。三度改暦を上請し、1685年(貞享2)大和暦により改暦された。これが貞享暦であり、その暦法によって編纂(へんさん)された暦書もその名でよぶ。貞享暦は授時暦の歳実消長法を取り入れ、皇都京都を立算地とした。従来は中国伝来の暦法をそのまま採用したが、貞享暦に至って初めて日本人の手になる日本の地に適応した暦法が採用された点で画期的であった。施行されること70年で「宝暦(ほうれき)暦」にかわった。
[渡辺敏夫]
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渋川春海(はるみ)によって作られた日本で最初の暦法。1685年(貞享2)から1754年(宝暦4)まで70年間用いられた。春海はみずからの観測をもととし,理想的暦法とされていた授時暦(じゅじれき)を範にとり,中国と日本との間の経度差(里差)を考慮して,京都を基準とする新暦法を編纂した。これを「大和暦」と名づけ,1684年に朝廷に献上して採用を願いでた。朝廷は大統暦による改暦を決定していたが,同年10月29日にこれを改めて大和暦を採用し,「貞享暦」の名を賜った。春海は新設の幕府天文方に任命され,以後頒暦(はんれき)の天文学的部分は天文方が,暦注は暦家の幸徳井(こうとくい)家が担当することとなり,それまでまちまちであった地方暦の統一が実現した。
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…春海は元の授時暦をもって宣明暦に変えるよう進言したが,授時暦による日食予報が失敗したため改暦は中止された。春海は研究を重ね授時暦を日本の地にあうように改良し,これを大和暦法と名付け,その採用を請い,1684年(貞享1)11月,ついにこの案が採択され貞享暦として翌年から施行された。この功績により春海は従来の家禄30石の碁所を免ぜられ,100俵(采地の100石に当たる)を受けて天文職に任ぜられ,のちには250俵まで加俸された。…
…授時暦は江戸期の日本でさかんに研究され,建部賢弘の《授時暦諺解》が有名である。渋川春海は授時暦によって貞享暦(1685)を作り,麻田剛立は消長法を一般化させた。【橋本 敬造】。…
…この日が全国各地で農事などの目安にされているとはいえ,東日本では実際の終霜日がそれより遅い所は少なくなく,伝承どおりに八十八夜を基準にして実作業を行っているとは必ずしもいえない。八十八夜に全国ほぼ共通の伝承があるのは,最初の全国的な暦である貞享暦が八十八夜を雑節の一つとして採用し広めたからだと思われ,暖地の暦注がそれ以外の地の伝承に影響を与えている例だといえよう。【田中 宣一】。…
※「貞享暦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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