デジタル大辞泉
「土御門通親」の意味・読み・例文・類語
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土御門通親
没年:建仁2.10.21(1202.11.7)
生年:久安5(1149)
平安末・鎌倉前期の宮廷政治家。位階は正二位に昇り,土御門(久我)内大臣と号す。村上源氏雅通の長男。母は美福門院(次いで八条院)女房,藤原行兼(長信)の娘。はじめ花山院忠雅の娘を妻としたが,平氏の隆盛期には平教盛の娘を娶り,その後援をたのんで政界に進出。安元1(1175)年父の死により家督相続。平氏の擁する高倉天皇の近臣となったが,寿永2(1183)年7月の平氏西走後は後鳥羽天皇の乳母高倉範子を室に迎えるなどして政治的立場を更新,後白河法皇近臣の列に加わった。かかる無節操は別にして,通親の朝務に対する精励と手腕は政敵九条兼実にも称えられるほどで,文治1(1185)年末源頼朝の申請により議奏公卿に選任,建久初年には,頼朝の娘大姫の入内工作を依頼されるなど,関東の信任も得た。法皇の死後も,その寵姫だった丹後局(高階栄子)と結託して勢力の温存に努め,建久6(1195)年範子の連れ子在子(のちの承明門院)に後鳥羽天皇の第1皇子為仁が誕生するやその養育に当たり,翌年11月宿敵・親幕派の兼実一党を廟堂から追放(建久7年の政変),同9年1月には為仁の践祚を実現(土御門天皇),後鳥羽院庁の別当も兼ねて朝政を掌握した。正治1(1199)年1月の頼朝の死を契機に,京都政界における残余の親幕派勢力を一掃,その権勢は世に「源博陸(関白の意味)」と称されたが,晩年は後鳥羽上皇の政治的成長による制約を受けることも多かった。<著作>『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』<参考文献>竜粛『鎌倉時代』下,橋本義彦『源通親』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
土御門通親
つちみかどみちちか
1149〜1202
平安末期・鎌倉初期の政治家
村上源氏の出身。源通親ともいう。後白河上皇の近臣で,1185年源頼朝の推薦で議奏公卿となった。'96年頼朝と結んだ九条兼実を排斥し,後鳥羽天皇譲位後,外孫の土御門天皇をたて朝廷の実権を握り,後鳥羽上皇のとき内大臣に昇進し,鎌倉幕府に対抗した。
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世界大百科事典(旧版)内の土御門通親の言及
【源通親】より
…平安末~鎌倉前期の宮廷政治家。正二位内大臣にまで進み,土御門(久我)内大臣と号す。村上源氏久我雅通の長子。母は美福門院(または八条院)女房,典薬助藤原行兼の娘。はじめ花山院忠雅の娘を妻としたが,仁安・嘉応(1166‐71)ころ平教盛の娘をめとり,全盛期の平氏の後援をたのんで政界に進出。また高倉天皇の近臣として重きをなしたが,平氏の西走(1183)後は後鳥羽天皇の乳母高倉範子を室に迎えるなどして政治的立場の更新をはかり,後白河法皇近臣の列に加わった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」