中国,金朝第4代の皇帝。在位1149-61年。完顔亮(女真名,迪古乃)。クーデタによって煕宗を殺害して即位し,宗室などの旧勢力を抑えて独裁権力の確立をはかった。1150年(天徳2)には宗室を大虐殺してその勢力を奪った。また独立的な地方機関に対しても統制を強めて,同年行台尚書省を廃止し,都元帥府を枢密院と改めたほか,翌年には世襲万戸を廃してそのあとに節度使を任命し,中央政府の権限を強めた。53年(貞元1)首都を上京会寧府(現在の黒竜江省阿城県付近)から燕京(のち中都と改称,現在の北京)に遷し,56年(正隆1)には中書,門下両省を廃して尚書省に権限を集中し,こうして独裁体制を築いた。そして61年には中国統一の野望に燃えて自ら南宋征伐に向かったが,あまりに過酷な徴発をしたために国内に動揺がひろがって,契丹人が西北方面で反乱をおこし,遼陽では東京留守烏禄(世宗)が自立して大混乱となった。こうした中で海陵王は部下によって揚州で殺害された。世宗はのちに彼を皇帝の位から海陵郡王に降し,最後には庶人にまでおとした。
執筆者:松浦 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、金の第4代皇帝(在位1149~61)。阿骨打(アクダ)の孫。父は宗幹(そうかん)。女真(じょしん)名は迪古乃(テキコナイ)。諱(いみな)は亮(りょう)。1149年、腹心の者と謀り煕宗(きそう)を殺して帝位についた。そして数か月後には第2代の太宗や宗翰(そうかん)の子など宗室の者百数十人および重臣を殺し、反対勢力を一掃した。また華北統治の機関であった行台尚書省を廃止し、都元帥府を枢密院と改めたのち、56年には門下、中書の2省を廃止し、政務執行機関を尚書省のみとし、腹心の部下をもって尚書省を構成させた。このため尚書省は皇帝の完全な従属機関となり、彼の独裁体制が確立した。また、これまで路(ろ)の長官として地方に勢力のあった世襲万戸を廃止し、かわりに中央の官僚である節度使を路の長官に任命し、中央においても地方においても君主独裁の中央集権的専制国家を完成させた。彼は53年燕京(えんけい)(いまの北京(ペキン))に遷都して中都と改称し、旧都上京会寧府(じょうけいかいねいふ)の宮殿や邸宅を取り壊し廃墟(はいきょ)としてしまった。彼は宋(そう)を滅ぼして中国を統一しようとし、61年南征軍をおこし、自ら出兵したが、契丹(きったん)人や女真人の間に反乱が起きた。このとき遼陽(りょうよう)で世宗が即位すると南征女真軍の間にも動揺が伝わり、将兵は彼に背いて遼陽に引き返した。海陵王も一隊を率いて帰る途中61年11月、部下に殺された。
[河内良弘]
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