城ノ倉城跡(読み)じようのくらじようあと

日本歴史地名大系 「城ノ倉城跡」の解説

城ノ倉城跡
じようのくらじようあと

[現在地名]川俣町飯坂 城ノ倉など

県立川俣高等学校の所在する台地とその北方の山塊一帯、三百さんびやく川・広瀬ひろせ川と切通しで区画された区域が城域をなす。城下から梁川やながわ(現梁川町)・中村(現相馬市)に至る街道は、伊達・相馬・田村各氏の本拠地に通じ、要衝の地であった。天正一二年(一五八四)以前の河俣城にあたるとされ、南北朝期には河俣、のち川又などとも記された。建武四年(一三三七)三月八日、南朝方の広橋経泰は霊山りようぜん(現霊山町)から出陣して「小手保河俣城」を攻め落しているが(延元二年八月二六日「相馬胤平軍忠状」相馬文書)、貞和三年(一三四七)七月北朝方の畠山国氏勢に攻略された(同年九月日「石河兼光軍忠状」遠藤白川文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む