城内村(読み)じようないむら

日本歴史地名大系 「城内村」の解説

城内村
じようないむら

[現在地名]日田市城町しろまち一―二丁目・北豆田きたまめだ

陣屋廻じんやまわり村の南西方、花月かげつ川左岸にあり、西は豆田町、南から東にかけてはつつみ(上城内村)と接する。府内・日田往還が通る。近世初期から幕府領城内村(現城町一丁目を中心とする)と森藩領城内村(現北豆田と城町二丁目)に分れ、領境は一部は錯綜していた。北部にあるたか(現慈眼山)は鷹城とも記され、仁寿元年(八五一)日田郡大領となった大蔵氏の居城跡と伝える(豊西記)。「豊後国志」は大蔵おおくら古城として「大領大蔵永弘始館此、子孫二十余世並居焉、故其地有城内名」とあり、地名の城内の由来とする。同城跡の一角に現在永興ようこう(仏像収蔵のための建物)と一部寺院の遺跡が残る。廃寺となった永福田寺とともに延久三年(一〇七一)大蔵永季によって建立されたという。南側登口に貞和五年(一三四九)銘の逆修塔がある。

慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に城内村のうち八二石余とあり、同年の予州替地御知行所目録(同史料)には城内村内二〇三石余とみえる。


城内村
じようないむら

[現在地名]矢島町城内

子吉こよし川に荒沢あらさわ川が合流する平野部にあり、矢島筋・前郷まえごう通に属する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に村名がある。正保三年(一六四六)には三六五石五斗四升六合(「出羽国油利郡之内知行高帳」秋田県庁蔵)、同四年の出羽一国絵図では城内屋敷とある。宝暦六年(一七五六)の御領分中覚書(矢島町史)によれば本田五五四石三斗七升六合、新田五六石二斗一升三合、家数六七軒、人数二七三人とある。寛政一二年(一八〇〇)の出羽国由理郡仙北郡之内郷村高帳(矢島町役場蔵)では本田五二八石余、新田五二石余とある。明治五年(一八七二)の旧高旧領取調帳では六四六石とある。


城内村
じようないむら

[現在地名]河合町広瀬台ひろせだい一―三丁目・高塚台たかつかだい一―三丁目・大字城内

大和川南岸、大輪田おおわだ村東方に接続する。城内は塁砦にちなむ地名か。大輪田中世、大輪田氏の城塁があった(国民郷士記)慶長郷帳では「せうない村」とある。村高は一八六・九四石。御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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