城常太郎(読み)じょうつねたろう

改訂新版 世界大百科事典 「城常太郎」の意味・わかりやすい解説

城常太郎 (じょうつねたろう)
生没年:1863-1904(文久3-明治37)

日本労働運動先駆者熊本に生まれたが,早く父を失い,苦労して靴工となった。1888年《国民之友》のサンフランシスコの中国人靴工の記事を読み,単身渡米。皿洗いなどで働くうち,日本雑貨店を経営する高野房太郎を知った。関根忠吉とともに靴修理兼靴製造業を営む間,一時帰国したが,13人の靴工をつれて再渡米し靴店経営に成功した。91年高野,沢田半之助らと同地で職工義友会結成,その経験をもとに帰国後,97年東京に職工義友会を組織した。労働組合期成会創立にかかわった後,神戸に移り,労働組合研究会もつくった。その後神戸製靴合資会社,天津製靴会社も設立した。天津で死去
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20世紀日本人名事典 「城常太郎」の解説

城 常太郎
ジョウ ツネタロウ

明治期の労働運動家,靴製造業者



生年
文久3年1月(1863年)

没年
明治37(1904)年7月26日

出身地
熊本県熊本市竹屋町

経歴
神戸で靴工として修業をつんだのち、明治21年サンフランシスコに渡り、皿洗いなどをして働き、のちに靴直し兼靴製造業を始める。26年日本人職工を集めて加州日本人靴工同盟会を組織し、29年頃帰国。30年高野房太郎らと職工義友会や労働組合期成会を組織するなど、明治初期の社会主義者として活躍した。やがて運動から離れ、神戸へ移り、神戸製靴合資会社を設立。のち高野と中国に渡り、34年には天津製靴会社を設立した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「城常太郎」の解説

城常太郎

没年:明治38.7.26(1905)
生年:文久3.1(1863)
明治時代,草創期の労働運動家。現在の熊本市に生まれ,神戸で靴工として修業したのち,明治21(1888)年サンフランシスコに渡り,同地における日本人靴製造業の先駆者となった。渡米中に高野房太郎と知り合い,1891年夏に高野,沢田半之助らと日本の労働問題の解決をめざして職工義友会を結成。帰国後,明治30(1897)年に高野,沢田らと職工義友会を再組織し,「職工諸君に寄す」を配布。同年中に日本初の労働問題演説会を開催して弁士を務め,労働組合期成会を結成して仮幹事となる。32年には清国労働者非雑居期成同盟会に高野と参加。のち高野と中国に渡り,1901年天津製靴会社を設立。神戸で死去。<参考文献>二村一夫「職工義友会と加州日本人靴工組合」(『労働運動史研究』62号),佐和慶太郎「日本労働運動の創始者 靴工・城常太郎の生涯」(『労働運動研究』151~165号の奇数号)

(有馬学)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「城常太郎」の解説

城常太郎 じょう-つねたろう

1863-1905 明治時代の労働運動家。
文久3年生まれ。神戸で靴工の修業後,渡米。サンフランシスコで高野房太郎と知りあい,帰国後職工義友会,労働組合期成会を組織。のち中国にわたり,天津(てんしん)製靴を設立した。明治38年7月26日死去。43歳。肥後(熊本県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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