堀江新地
ほりえしんち
東を西横堀川、北を長堀川、南を道頓堀川、西を木津川で限られた区域の総称。西横堀川と木津川を結ぶ堀江川で北堀江・南堀江に分れる。当地はもと上下の難波村に属しており、堀江川の開削によって川沿いに町屋ができたのちも、貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図には長堀川に架かる上白髪橋筋を境に東半分が下難波領、西半分が「上難波津領」と記される。
慶長年間(一五九六―一六一五)西横堀川の開削によって西岸に横堀呉服町(のちの横堀吉野屋町)が、元和元年(一六一五)道頓堀川の開削により北岸に新難波町がつくられた。以降惣右衛門町(のちの道頓堀釜屋町)・平野徳寿町(のちの道頓堀徳寿町)・新戎町・新大黒町が形成され、さらに同五―六年の長堀川開削によって宗無町(のちの長堀平右衛門町)・次郎兵衛町(のちの長堀宇和島町)・新兵衛町(のちの長堀富田屋町)・白髪山両裏櫂屋町(のちの長堀白髪町・出口町・橘町)・長堀高橋町がつくられ、また木津川沿岸に船着場として下博労町が形成された。承応四年(一六五五)大坂城玉造口定番与力同心の増員のため玉造門外八ヵ町の住民が家屋敷を収公され、替地として当地を与えられて下博労町の東に移転し、東伊勢町・伏見長屋町・伏見伊勢町・伏見清水町・二本松町・越中町・北新町・大津町のいわゆる新玉造八町が形成された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の堀江新地の言及
【堀江】より
…1698年(元禄11)江戸幕府は新地の開発を目的に,河村瑞賢に命じて大坂三郷地続きの長堀川,道頓堀にはさまれた地を開発させ,中央部東西に堀川を開削させて〈堀江川〉と名づけた。以後川の北側を北堀江,南側を堀江と通称するようになったが,幕府は堀江新地繁栄のため上荷船500艘,新土船24艘を許可したほか,茶屋株,煮売株,水茶屋,湯屋株,道者宿株,髪結床,能舞台,芝居,相撲,魚市,青物市を許し,三郷のなかに組み入れた。堀江川は1960年に埋め立てられたが,現在北堀江,南堀江各1~5丁目がある。…
※「堀江新地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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