日本歴史地名大系 「堂崎村」の解説 堂崎村どうざきむら 長崎県:南高来郡有家町堂崎村[現在地名]有家町石田(いしだ)・大苑(おおぞの)・原尾(はらお)有田(ありた)村の東に位置し、南東部は海に臨む。石田は丸尾(まるお)・境目(さかいめ)・池田(いけだ)・塩屋(しおや)・太郎崎(たろざき)・新切(しんきり)・古城(こじよう)・石田・柳原(やなぎはら)などからなる。地内に鉄遺跡が分布し、室町期の仏塔石片が散在する。北部の天満宮の鎮座する一帯は彩霞山とよばれていたが、宮の前の古い往還は殿様道と称した。原尾は堂山(どうやま)・大平(おおびら)・高原(たかはら)・原尾・久保田(くぼた)・六郎木(ろくろぎ)・東谷(ひがしだに)・藤原(ふじばる)・三又(みまた)・木場(こば)などからなり、大平古墳があるほか、神籠石や行基伝説にかかわる肥前七観音の一つという観音堂がある。堂崎の地名はこの観音堂に由来するとも、天平二〇年(七四八)行基の開創という真言宗青竜(せいりゆう)寺の大伽藍にかかわるともいわれ、古くは春城(はるき)・春来崎・堂幸(どうさち)と称していたという。同所の高良玉垂(たからたまたれ)神社(玉垂神社とも)は筑前からの移住者が勧請したと伝え、お産の神として信仰される。原尾の称名(しようみよう)寺(浄土真宗本願寺派)は青竜寺の後身で、温泉山満明(まんみよう)寺(現小浜町)の末寺であったという。文中三年(一三七四)肥後の佐々木氏が再興、のちキリシタンにより焼失するが、島原の乱後に同氏が再び復興、寛永二〇年(一六四三)真宗に改め、寺号を称名寺とした。大苑は身延(みのぶ)・高砂(たかさご)・貝森(かいもり)・浜下(はました)・浜上・浜小路(はましゆうじ)・大苑・陣之内(じんのうち)からなり、円墳や鉄遺跡があり、八幡神社が鎮座しているほか、陣之内には花十字型紋入りのキリシタン墓碑が二基ある。石田にもキリシタン墓碑がある。 堂崎村どうざきむら 鹿児島県:大口市堂崎村[現在地名]大口市堂崎金羽田(かなはだ)村の南にあり、西は下殿(しもとの)村、東は羽月(はつき)川を隔てて大隅国菱刈(ひしかり)郡下手(しもで)村(現菱刈町)。村名は地元では「どざっ」ともよぶ。永禄一一年(一五六八)一月二〇日大口城の菱刈・肥後相良勢数千は堂崎まで出陣し、馬越(まこし)城(現菱刈町)の島津忠平(義弘)らと戦った。この合戦で島津方は敗れ、忠平は曾木(そぎ)まで退却したという(「島津貴久譜」旧記雑録など)。同年八月一九日にも大口城より出た兵は堂崎の通路に陣を構え、平泉(ひらいずみ)城兵の通路を断っている(「箕輪伊賀覚書」「島津義久譜」同書など)。近世には伊佐郡羽月郷に属した。慶長一五年(一六一〇)寺師筑後守に宛行われた高三六石余の田畠屋敷三町七反余のうちに、諸村浮免の一ヵ所として「堂崎村はしノ口」の中畠一反余(分米九斗余)が含まれていた(「新納忠元知行目録」寺師文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by