壬生通(読み)みぶどおり

日本歴史地名大系 「壬生通」の解説

壬生通
みぶどおり

日光街道小山おやま宿の北二〇町の喜沢きざわ(現小山市)から北西へ分岐し、楡木にれぎ宿(現鹿沼市)で例幣使街道を合せ、くろ川ならびにその支流なめ川に沿って、西の足尾あしお山塊と東の古賀志こがし山塊の間を北上し、今市宿東端で再び日光街道に合する。宇都宮経由の日光街道の一部として、幕府による整備が同時に進められ、道中奉行管轄を受けてきた。日光西街道と記された記録もある。すべての取決めは日光街道と同一で、定助郷制が定められ、全宿に二十数ヵ村の助郷村が固定的に付けられたのも、同様に元禄九年(一六九六)であった。現在では、楡木―今市間は例幣使街道ともいわれている。しかしこの間の宿の助郷村が定められたのが、日光街道と同じ元禄九年であり、金崎かなさき宿(現上都賀郡西方村)以南の例幣使街道のそれは明和三年(一七六六)であるから、この区間は本来は日光街道壬生通であった。

室町時代中期の連歌師宗長の「東路の津登」によれば、永正六年(一五〇九)八月後半、宗長は下野国に入り、佐野氏の館に滞在、壬生を経て鹿沼から日光へ入った。壬生から日光への道は、のちの壬生通・例幣使街道の古道にあたり、鎌倉街道の一つであったと推定される。鹿沼の壬生綱房の館に一泊し、「鹿沼より寺までは五十里の道。此ごろの雨に人馬の行かよひとをるべくもあらざりしにや」と記している。鹿沼の城下坂本さかもと(日光門前)の町は賑いを呈していたが、その間の沿道は、とくに記すほどのことのない山道であったと推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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